もしやこの帝国はーと、フビライ汗は思ったー精神の黄道に宿る幻の星座にほかならぬのではないか。
「いつか日かこの表象をことごとく知るときには」と、フビライ汗はマルコに問うた、「朕はわが帝国をついに所有し得ることになるのだろうか?」
すると、若者の答えて言うに、「陛下、そのように信じ給うてはなりませぬ。そのときには陛下御自身が表象中の表象とならせ給う日でございます。」
イタロ・カルヴィーノ 「マルコ・ポーロの見えない都市」
米川良夫訳 P.32-33 河出書房新社 1977年初版
住んでいる都市と、旅で訪れる都市は違う。
初めて、あるいは2-3度しか訪れない、そしてこの先もあまり訪れないであろう都市と、例えば過去住んでいた都市とでも、違うだろう。
写真でしか見たことがない都市でも、その記憶を持って実際に訪れると、例えばその後その写真を見たときに、生き生きと実際の都市の記憶が浮かんでくることに気づいた。
考えると当たり前かもしれないが、実際に訪れることで、平坦な2次元の写真が3次元の情報として立ち上ってくるからだ。
写真に関してそのような体験をしたのちに、自身の感覚がすこし変わったのに気づいた。
過去の、白黒写真や、戦前の再生速度がおかしいような白黒映像をみて、
それまでは、
「これは全く自分とは関係のない、まさに「過去」そのものだ」
と感じていたが、
そうではなく、
白黒の写真であれば脳内でカラーに変えて立体化させ、
再生速度がおかしければそれを脳内補正して音も補正する。
そうすると、まさに過去が今とつながる、現実であるかのように思えてきたのだ。
白黒写真を見ていると、世界が暗かったような気がする。
そんなことはなかったのだ。
春は明るく、昼は今と同じように明るく、花や木々は今と同じく鮮やかだった。
写真を見ると昔は暗く、いまは明るい、いまが一番いい、と自然に思っていたのだが、
過去は過去で素晴らしかった。
そう感じる様になった。
過去の映像でもそうだ。今と違うナレーションの流行り、妙に甲高く、妙なクセのあるナレーションを脳内で取り去ってみれば、
あれこれは昨日のことかいな、
となってくる。
今は別に特別ではない。
だがそれは今が大したことがない、ということとは違う。
今も、昔も、いつも素晴らしい、のだ。
(時、という仕組み、考え方から自由になることの重要性を感じます)