夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

高倉健氏のこと。

高倉健、その愛。

高倉健氏のことを書いた小田貴月氏の本を読んでいると、高倉氏が身体のことをとても気遣っていたことがわかる。180センチで晩年も70キロだったそうなので、私が175センチで65キロであることを考えると、だいたいの体格の雰囲気はわかる。

薬屋健ちゃん、といわれるほど、サプリメントに凝っていたとのことで、酒はのまない、たばこもやめた、という生活。17年間の貴月氏との生活の前は(83歳没なので、17をひくと66歳まで?)は食事は夕食のみで、肉中心、魚が大嫌いだったという。

タンパク質をしっかり摂るのはいいとして、やはり野菜が不足するだろう。たぶんそこはサプリメントで補われていたようだが。一時は真面目に米西海岸のジム文化が生んだサプリメント屋をやろうと考えていたということであるし。

高倉氏の人生を自身ではなく、身近な人に書いてほしい、と高倉氏は望んだという。映画俳優であることは、他人の目に常にさらされていることである。自身もそのように日々感じている。そのことはストレスである。

有名人を見る人の目、というものは、羨望と見下しが入り混じったやっかいなものだ。暖かい部分もあるが、プライバシーを消費して好き勝手に楽しむ、という残酷な面がある。基本的には違法ではない不倫や離婚が、スキャンダルとして一番に衆目が集まるところを見ても、それはしんどい日々である。

高倉氏は、過去に義理の姉の放火で自宅を全焼させられている。その義妹の巨額の投資失敗で、結局江利チエミとも離婚している。この義理の姉に高倉は大変親切にして、敷地内の別宅に住まわせていたともいう。巨額の金を稼ぐと、縁がないような親戚も頼りたかってくるという。俳優になんかなって、と勘当した高倉の父はむしろそのあたり含めて先見の明があったのかもしれない。

56歳のころには、映画以外では世間との接点が少ないゆえか、エイズ死という理由ない報道もあり、本人は非常に心中複雑だったという。世間にはみせなかったが、非常な短気であったというので、映画以外で世間に接しない、という高倉の姿勢は結局正しかったのだろう。

こうしたことは、本人が抗議として公式に語ると、その事実がどうこうというよりも、抗議をした、という点がたたかれるだろう。そのことを嫌というほどわかっていた高倉は、自身のことを語る術をもたず、死してのち伴奏者であった貴月氏に自身のことを書き残してくれるように託したのだろう。他人により、客観的に見てもらえる。受け取る側も、そうした情報として受け止められる。

月氏は、自身の経験も生かし、気品のある文章で高倉氏の思いをあらわした。そのことを本を読んで感じた。

高倉氏が、貴月氏に出会えたことが嬉れしかった、と敢えて「嬉」の字を当てて表現されたことで、この人になら自身のことが正しく伝えられる、という思いもまた。感じた。

高倉健氏は、存命中は神話的人物でしたが、この本を読んで身近な普通の人であった、とも感じました。一方で普通ではない覚悟の人である、とも感じました)