夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

美人とルッキズム。

現代思想11月号特集、”ルッキズムを考える”を注文した。今朝の注文であるので、まだ読んでいないのだが。

ルッキズム、というものが気になっている。

今朝の新聞を読んでいると、既に新聞の中吊りが中断し、内容的にも「健康と遺産と70-80年代アイドル」に特化した感のある週刊誌のテーマで、「美しい女性を美人と呼んではだめですか」というものが目についたので、生まれてからこのかた感じてきた、考えてきたことを踏まえ、すこし感じるところを書いてみる。

まずは「おっさん雑誌」の臭みについて。電車の中吊りを見るたびに、「大人になる、オッサンになる、というのはこういうことを考えなければいけないのか」と感じ、暗然たる気持ちになったものだ。

私は中学校から電車通学なので、ほとんど毎日電車の中吊り広告を読んできた。大学生の時はスクーター&バイク通学だったので、中断したが、会社員になってまた復活した。

中吊り広告が私に伝えるメッセージ、それは「どうせオマエの頭の中もこんなもんやろ」であった。「かっこつけずにさらけだせや」であった。

いや、すみません、そうなんです、と思いつつも、なんともはや露悪的というのか、そこは言わない約束でしょ、という気持ちも同時にもったものだ。だが、妬み、嫉み、嫉妬、羨望、卑下、諦め、それが人生なのだ、ということを、毎週毎週感じながら、でも目が離せなかったのだ。周りのおっさんたちの頭はこんなだ、という。それが本来の自分なのだ、という思いとともに。

なので、社会人になることは、ある意味残念であった。そうか、これからはこういう考えでいかねばならないのか、と思ったからだ。

この年になって、それは当たり前なので人と話すことではない、と思ってきたのだが、この前内田樹先生の本を見ていたら、電車の中吊り広告のことが書かれていた。内田先生も、「俺の頭の中はこんなではない」と思われていたという。

だが内田先生は心からそう思われたと思うが、私は違うのだ。あの露悪的記事を読むと、「そうだ、自分の中にはこの思いがある」としか思えなかったのだ。そういう意味では「正直だな」と思ってもいたのだから。だから雑誌が売れるのだ。私もあなたも、「同じ穴の貉」。

その世界観の中でつぶやかれる「美人」。これはもう、発せられた初めての時から、アウトだろう。そう思っていた。これは、自身の嫉妬を露悪的に示すのと、全く同じ語感と論法だからだ。

これはうまく言語化できない。自分の中にある「言ってはいけない」のうちにあるものだからだ。匿名にて、発せられている議題の一つだからだ。

だが、最近になって様々な「言ってはいけない」「認定された差別」が「本音」として表層に浮かび、「認定取り消し」を受けている。このことは端的に、人間の精神世界の進歩だと、思うのである。

種々の「無理強い」「強制」が是正されている。

酒の一気。マージャン。サービス残業パワハラ、セクハラ。タバコ。賄賂。ある意味でのお歳暮とか。

私が気が付いた「無理強い」がどんどん修正されている。大きな流れで、いいことだ、と感じる。

問題提起「美人」は、残念ながらNGだろう。美人、ということばの裏には、離れがたい双子の妹として、不美人、がいる。男性も「美しい人」という意味で「美人」というなら、同じである。

これは、比較、なのである。親ガチャ、が問題になっているが、ガチャの本質は「ランダムで、受け手に関係がなく、あたりとはずれがある」ことの興奮と不条理であろう。

当たった、外れた、という比較と差別。

物を物質として、あるいは情報として受け取る時、自身の、個人的な評価がある。これを「人に言わず自由に感じる」ことは、まだぎりぎりセーフであろう。ぎりぎり、というのは、早晩そこのところにも、メスが入る気がするからだ。

「感じても、いけない」

私は、そこのところは、できれば自由にさせてください、と祈るような気もちでいる。

本音、を感じることもいけない。将来はそのことが議論されるだろう。

いまはまだ、そのことを「表出」することが議題となっている。答えは明白だ。皆さん、答えはしっている。改まって「美人といっていいか」は「NO」だろう。なぜならその問いは、「比較していいか」であり、その比較で自身が貶められた、と感じる人にとっては「差別」であるからだ。いや、貶められた、と感じない(自分は美のエリアにいる)と思っていてもおんなじだ。今は「美」にいても、年老いたときには自身の中で「過去の自分」と「今の自分」を比較する地獄に行くのだから。明日は我が身、というやつだ。

中吊り界から放逐されてしまった(広告費の所為だが)男性週刊誌のテーマであることが、やはり象徴的だろう。残滓。

だがこのことは改めて心に刻まねばならない。週刊誌の見出しは、自身の心の奥底にある「負の見出し」である、と。だから雑誌は、売れたのだから、と。

現代思想、届くのが楽しみなような、怖いような。。)

現代思想2021年11月号 特集=ルッキズムを考える