夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

中吊り広告の終了。

本日の体重、朝食後で64㎏ジャストであった。筋肉量は54kg、体脂肪率は10.5%?位だったかな。昨日の歩数は10667歩。久しぶりに1万歩を超えた。

 

実は一日1万歩を目指していたのだが、それにこだわりすぎないようにしようか、と思っている。こだわりすぎると到達しない日は終日なんとなく未達成感がどこかに残る。これがよくない。

 

また疲れすぎること。これで帰宅後すぐ眠くなる。眠いのは悪くはないが、家族との会話ができないときもあるのだ。

 

これはたぶんあまりよくないかな、と気づいた。健康も大事だが、家族とのコミュニケーションも大事だろうと思ったのだ。

 

鉄道の車内につり下げる「中づり広告」を週刊誌の「週刊文春」と「週刊新潮」がやめることになった。週刊文春は、8月26日発売号で終了し、週刊新潮は9月末で最後となる。インターネットの電子版に、宣伝費を投入することなどが理由という。

9月15日 読売新聞

中吊り広告が終了という。

 

通勤通学時、都市部であれば動きが取れない。しかたなく中空を見上げたときに、場合によっては目に入ってくるもの、それが中吊り広告だ。

 

文春と新潮が中吊りをやめるという。中学校から電車通学だったが、なんとなく思っていたこと、それは「大人っていややなあ」だった。

 

電車で学ぶことといえば、「大人の頭の中はあの現代や新潮や大衆のようになっているのか」だった。

 

妬み、恨み、復讐、エロ、スキャンダル。

これが大人というものか。

あんまり入りたくはないなあ、その世界。

 

中吊り広告を見るたびそう思った。

いまオッサンになっても、認識は変わらない。それがサラリーマンなのか。実際になってはみたが、やっぱりそうか、という感じである。

これが「大人にあんまりなりたくないなあ」の一因であったかもしれない。

だが、肉体は否応なく大人になる。

 

人は人を、まずは外見で判断する。

一瞬に。

 

内田樹先生の本を読んでいて、先生が中吊り広告を見て、大人の世界はそうではないだろう、という意見をお持ちであったことを知った。たしかに、そうではない世界はある。例えば大学。いろいろ政府にいじめられ、教養は不要、実学のみ要、と言われてはいるが、そうではあってもまだ違う世界はあるだろう。

 

スキャンダルと言えばベッキーだ。私はベッキー(というか外人顔、もっというと鼻フェチかも)が好きなのだが、例の不倫騒動でベッキーのことを1ミリも嫌いにはならなかった。これはわが事ながら不思議ではある。皆さんが「ベッキーはけしからん」とおっしゃるたびに、「そんなにいじめんといたってくれ。」と拝むような気持ちになったことを思い出す。

 

有名になることとは、プライバシーを売り渡すことと同義なのだろう。

作家の森博嗣氏が、とにかく有名になりたくない、といつもおっしゃって(書かれて)いることを思い出す。

 

私自身でいけば、子供時代より、有名になればなんとなく仕事が継続的に入手できて安泰だ、と意味なく思ってきた気がする。

 

例えば作家として有名(=これは作った文章が面白い、有益である、ということなのだろうが)になれば、書いた文章が継続的に売れる、というイメージだ。

実際そういうことはあるのだろうが、森氏のおっしゃる面倒も合わせて受けとるわけである。

 

物事には、明るい面と暗い面がある。

 

そのことにもう少し意識的になっても、いいのかもしれない、と自問した。

 

(有名である、ということとセットなのは、妬み、嫉みの気持ちでしょうね。。)