夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

師と先生。

本日朝食前62.3kg、体脂肪率11.1%。今年の冬はずっと67kgであったのだが、一度上がった体重があまり落ちなかったので、昼食抜きとしたが、夏の大汗(夏でも上下スーツ=個人的拘り&ポケット使用)のせいか61キロ代に落ちてしまい、そのあとあまり上がらない。

 

理由を考えてみたのだが、やはり飲み会がないことが大きいだろう。一度飲み会があると、だいたい2kgは太る。とにかく”食べ上戸”と自称しているが、食欲が止まらないのだ。とにかく食べ続ける。

それが週に2回もあれば太っては落とし、太っては落とし、で今まで来たわけだ。それがなくなった。

ということで、普通に過ごしている分には、あまり太る生活ではない、ということだろう。

 

師と先生。

師は弟子のポジションに身を置いたものだけがリアルに感知できるような種類の幻想である。その幻想に掛け金を置いた弟子にだけ、「底知れぬ叡智」を伝えるような種類の幻想である。
内田樹 「おじさん」的思考 角川e文庫 81%(電子書籍

義務教育、でここ日本では「先生」に出会う。もちろん幼稚園でも、習い事でも出会うだろう。だが子供であり、「学費」を「親」に出してもらっているときに出会う「先生」は、どちらかというと、「自分から召喚」というと偉そうだが「自分から来て頂いた」存在にはなりにくいだろう。

 

幻想としての大学、学費が安く、試験を突破すれば自らのバイト代で学費が払えたという、安保闘争前の大学では、大学生とは稀有で大人な存在であったろう。自らの学び代を自らが贖うことで、初めて人は目の前の人が「自らの師」と思いうるのではないだろうか。

 

思いうる、のだ、すべての先生がそうなるわけではない。「この先生はすばらしい、まさにわが”師”だ!!」という感動を持って自らが選ぶことができる、という意味だ。

 

私の大学の学費は、親が出してくれた。ありがたいことだと、思う。高いやらどうやら、ということは言わずに、出してくれた。

だがでは大学で、「わが師!!」

と感じるような出会いは、実はなかったように思う。先生方は、たぶんそういう付き合いを望まれていたような気がするが。。

 

では、わが師はだれなのか、と考えてみた。

 

①会社。ここは自分が給与をもらうところだ。約2人ほど、思いつく。まさに頭があがらない、という感じだ。2人とも、飲むのが大好きな方であった。

②版画。こちらは費用をみずから出して、門をたたいた形だ。ご縁を頂いた先生。年下の方もいるが、道の先達はその道を行った期間で決まる。ものを作る、という姿勢を、感じさせていただいている意味では、まさに「師」である。

③本。池田晶子さんはまさに極北を示す北極星のような方。生きること、死ぬこと、存在、時間。さまざまな疑問を示していただいている。

 

内田さんは言う。「その幻想に掛け金を置いた弟子にだけ、「底知れぬ叡智」を伝えるような種類の幻想」。

 

まさに上記の3パターンの師の皆さんは、底が知れない、という幻想を私に下さって、いるようだ。

 

(師に出会った、と思う事は素晴らしいですね。自分以外すべてわが師、という立場もありますし)

「おじさん」的思考 (角川文庫)