夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

自由とはなにか。

今日から出勤。

 

 

森博嗣氏のエッセイが好きで読んでいるが(エッセイは読みやすくて軒並み大好きだが、どちらかというと男性作家のエッセイは軽やかとはいいがたい。女性作家の須賀敦子向田邦子森茉莉あたりが好物だ。いい感じで力が抜けており、そこで感じる”きちんと生きる”という自然な姿勢がいい。森博嗣氏のエッセイは、その点同じように力が抜けていて、そして真理がちりばめられている。読後感はわが敬愛する池田晶子さんと少し似ている気がする)、2007年刊の「自由をつくる 自在に生きる」を読んだ。森さんが50を少し超えたころの作品だろうか。

 

そこで森氏の自由になる具体的なテクニック、「下限を上限にする」を学んだ。

 

これはつまり、例えば「一日1万字を書かねばならない」が「下限」、「一日に一万字以上書いてはいけない」「上限」である。

下限であれば、「義務感」が常に付きまとう。義務感とは、エゴのことで、自然にこれを受け入れてしまっていること、そしてそれに気づかない、あるいは「そういうものだ」と思っていることがストレスの源となる。

 

もちろんそういうストレスがずっとゼロであると、これまた進歩がないのだが、要はそういうストレスを受けていても、それがストレスなのだ、と「敵」の姿をきちんと目視しておくことが、まずは自由への一歩となる。

 

森氏はおっしゃる。「支配というのは、一旦それに気づけば、案外簡単に排除することができる」(森博嗣 光文社新書 自由をつくる 自在に生きる P.187)と。

 

そう、なにがあって、それに自身が支配されていることが、存外見えないのだ。これはエゴに支配されていることと同じだ。それは常識や思い込み、といった姿をとることもあるだろう。

一方で森氏がご自身に使われるテクニック、「上限を下限にする」でいけば、「一万字以上書いてはいけない」、つまり一万字は書きつつ、それ以上は書かない。つまり一万字以上書くことでの肉体的疲労を排除できる。

 

そして読めばお分かりのとおり、一万字は上限下限、どちらのルールに従っても書くことになるのだ。むしろ下限の場合のほうが確実に書いている。書かねばならない、だと、書いていないこともままあるだろう。

 

大変調子よくて、1万字以上どうしても書いてしまうこともある。その場合は「ルール違反だけどたまにはまあいいか」と自身を許すのである。そして1万字以上の成果があるのだ。

その時には、ルール違反とはいっても、成果として1万字を超えた著作が残り、かつそこである気持ちを感じることができる。それが「自由」だ。

 

自由、ということばを見て、すべての人はそれを肯定的にとらえるだろう。だが、自由を突き詰めると、責任や不自由、というものが実は逆説的に降りかかってくることがある。

 

これがゆえに「自由よりも実は不自由がここちよい」「支配されていると感じないような支配が実は一番楽ちん」「自由からの逃走」ということが起きるし、それが自覚されないという意味では、より根深い問題となる。

 

映画「マトリックス」では、それは未来の出来事だ、とされてはいるが、(そして実際にそういう設定であるが)、ある意味で象徴的に現在の日々の暮らしを写す部分もある。

支配に気づかない(そして別に個人の支配者はいない)でいることは、実際に肉体がポッドにコールドスリープ状態であることと、少し似ているのだ。

 

話が脱線するが、今後AIの進化と、医学の進化により、よくこの欄で言っているのだが、たぶん1000年後には人類は激減し、すべての個体はその老化を避けるために自身は自身の肉体をコールドスリープさせることになるだろう。これは別にマトリックスのようにAIに支配されているものではなく、個人の意識上では「これは自身の選択だ」となっているのだろう。肉体はバーチャルで、すきなバーチャル肉体を選び、好きなバーチャル土地を旅行して過ごす。ストレスを感じる「1990年代ブラック24時間職場((笑)」(注:(笑)までが正式タイトルです)を怖い物みたさで体験する個体もあるだろう。

 

そこでは、人間の精神は、非常に「霊」に近づくだろう。だが、同じではない。人間のバーチャル精神と、リアルな「霊」との邂逅、などというのも、面白い題材かもしれない。

 

だが、美味な果物により、動物は種を世界にまき散らす、という形で、動物は植物の種の繁栄に広い意味で縛られているといっていいのと同じように、これはAIが存在することにより、「自主的に」という形で実は支配を受ける、「植物的支配」の被支配者に人類がなることになるということなのだ。

 

それをわかっていればいいのか。よくないのか。そこまで行くとすぐには判断がつかないが。

 

話が大きくずれすぎただろうか。

 

森氏はおっしゃる。自由になろうとおもうだけで、自由に近づく、と。試しにそう思ってみた。そのとおりだった。

目標は自身で見つけなければならない。とりあえずのこの日本でのデフォルトは、よき社会人になる、ということだろう。そのための技術は、この日本ではやはり対人関係構築がメジャーであろう。

 

一部の生与の才能(それを通常は「天才」というのだが、突出したもののみをいうようなイメージがあるのでこういっておく)のある人材は、それを生かした職を得ることもできる。だがだいぶ狭き門となった気がする。

 

これはやはり国に余裕がなくなったことと関係があるのだろう。手っ取り早く、歯車、というと語感が悪いのだが、美辞でごまかすのなら「社会の担い手」になっていただくしかない、というのが、この国の本音であろう。教養なんて学んでいる暇と余裕は、残念ながら「社会の雰囲気」としては無くなってしまったのだろう。

 

個人あるいは、家族単位で、その余裕がある場合は個別で得るしかなくなった。そういう意味では、明治時代に知らず時代は戻っているのかもしれない。