夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

文化について。

文化について。

 

一流の街なら、美術館があり博物館があり、また大学がある。それらは金を稼ぐために存在するのではない。むしろ税金を使い、無駄なことをしている。その無駄こそが、その街の財産ではないか。そういった無駄こそが、街の誇りではないか。「私の街には、こんな無駄があります」と自慢ができる。それが、健全な社会だ、と僕は考える。

 

 

森博嗣 つんつんブラザーズ P.163 講談社文庫

 


森さんのエッセイでこの箇所を見つけて、妙に気に入ってコピーしてノートに貼っている。何度かこの日記にも登場させたかもしれない。
なぜに気に入ったのか。いまはそうではないが、将来こんな街に住みたいものだ、と思うからである。


医療や福祉はまったなし。そこに金を使い、余ったら文化に使うのがあたりまえ。
そうなのだ、と思う。そちらと比べて、文化を行いましょう、とは思っていても言えないだろう。


まずはそちらを。そして文化は、そちらが良い感じになってから、やっとこさまあ、こっそりとやってもいい、という感じになるのだろう。


なので、”夢”なのだ。いわば”坂の上の雲”。


だが、維持は困難であるとはいえ、この地には大学も、博物館も、美術館もある。そこに働く人々もいる。条件はもう、よくはないかもしれないが。


ただ、金の問題は、背に腹は代えられない。医療や安全のために金を回すことには、誰も反対できないだろう。今の日本はそうなっている。こうなるまえに、もっと早く将来像を精確に描き、備えておくべきだった。


上記の引用に続いて、森さんはこうおっしゃっている。だが結びではこうおっしゃる。
しかし、人は必ずこの「文化」を復興するだろう。神がいなくなった現代において、それは神殿のような社会の人々のシンボルであるからだ。


私には、神はいない。多くの、日本人の皆さんもそうだろう。


だが、神という名であからさまに示される”人格神”ではないところのもの、例えば”正義”、例えば”真善美”のようなもの、をどこかで信じ、どこかで希ってはいないだろうか。


私は希っている。


その”希うもの”が、森さんがおっしゃる”文化”の神殿から、こっそりと、ひそやかに、こちらを覗いているような、気がしている。