阿る。
ひとに阿る、という行為は、普通人からは卑怯なものとして嫌われるものだろう。だが多かれ少なかれ、自ら作るものを自ら以外の存在(普通人だろうが)に見せる、という時には、仮に作るときには無心であったとしても、”阿る”気持ちが1ミリ、あるいは0.1ミリかもしれないが、発生しがちである。
完全にこの気持ちから離れることは果たして可能なのだろうか。なんとなくだが、可能な気がしている。
おおかた、そういった良い素材は、「わからなかった」「外れだった」と大勢から評価を受けるが、これは価値のあるものに付き纏う抵抗であって、これこそ、「作り甲斐」と言えるものだろう。良いものを作る技は、人に気に入られたいという精神を滅した先にあるものにちがいない。いつか手に入れたいものである。
P.159 つぼやきのテリーヌ 森博嗣
“良いものを作る技は、人に気に入られたいという精神を滅した先にある”と森氏はおっしゃる。至言であろう。
このことを知り、多分人ではなくファンタジーな言い方にはなるが“美の神”に、捧げるものとして人がモノを創作する時、それは三昧の中でかもしれないが、
”良きもの“が現出するだろう。
奉ずる先は美の神であるのか、はたまた“真”あるいは”善“であるのか、という違いがあるいはあるのかもしれないが。それらに奉ずること。人ではないなにか。理想、といってもいいかもしれない。
私見だが、年月の厳しい審判を経てこの時代に残っているものの中には、やはりきらりと光る、“人ではないなにかに阿った”気持ちが垣間見える気がするのだ。そうした阿りをこそ、希求したいものである。
(美への阿り。これですね!)