”びっくりした”という表現に辟易している。
最近の新聞投書(読後感が悪くほとんど読まないのだが、たまに目に入ってしまう)などでよく見る表現が”びっくりした”だ。
自分のことは棚に上げつつ、世間の常識から外れていて気付かないだめな輩を糾弾する、というニュアンスだ。自身は関係がないところで高みの見物をしながら、優雅に上品に”わたしはわたしの感想をのべています”。そんな逃げの姿が透けて見える。
だがその行為を深く非難している。めっちゃ、深く。
しかし、”個人的にびっくり”しているだけなのです、あなたの非難をしているわけではない”。火の粉を飛ばしてこないでください。という予防装置が組み込まれている(と使用者は信じている)。
そんな卑怯な語法であり、態度であると感じるのだ。
この”自分は正しくて、わかっていない奴がだめ”というニュアンスが、非常に鼻につく。この”びっくり”族が嫌いすぎて、投書欄からますます足が(というか目が)遠のいている。
逃げ腰の表現ではなく、直截に”これはだめだと思う”となぜいえないのか。
と書きつつも理由はわかっている。記名式、であるからだ。記名式である時点で、”勇気ある投書者”でもあるわけだ。
新聞、例えば大新聞と呼ばれる読売朝日の投書欄であれば、ご近所の年配者はほぼ目を通すであろう。そういう人たちの、支持をあつめ、耳に快い”若者や世間の思いやりや常識のなさ”を非難する場、それが新聞の投書欄である。
たまに年少者の意見も載っかる。だが上記の場の性格を押さえた、やはり”想定読者の耳に快い”意見が多いのだ。本当に年少者なのであろうか(調査はしているような気がするが)。
たぶん、本当に身体は年少者なのだろう。だが確実にその場所のルールを押さえている(というか押さえている投書が選ばれているのだろう)。
そこで出てくる感想。”予定調和”。記名式でなかったとしたら、それでもあなたは”びっくり”しますか。
匿名での発言はごみ溜めをとおりこして糞溜め(失礼)だと言われる。たしかにそうだろう。だが”匿名”ということは、”火の粉が降りかからない”と信じることが出来た装置でもある。いまは、もう、駄目だろうが。
欧米では匿名の発言は信用されない、という。だが議論を幼少時から技術として学び、”議論では敵対しても、議論が終れば愉快な仲間”に戻ることが出来、そしてそれができない人間は議論に参加することが出来ない社会と、議論での敵対は即敵認定である世間との差があるのであれば、やはりこの国では匿名でしかものが言えないだろうと思っている。
内田樹先生が、”僕は議論をしません”とおっしゃるのは、そういうことだろうと思っている。
新聞の投書欄にも一定の役割はあるのだろう。だが例えばそのような投書欄のやりかた、意見を言うだけ言って”そのような方向が望まれる”と結ぶばかりで、ではあなたがやってはいかがですか、というような社説ばかりでは、若者が新聞への購読に財布の紐を緩めることは、今後もないような気がしている。
(でも個人的には子供のころから新聞は大切でした。読書欄、文化欄、そして”新聞でこんなこといっちゃっていいのか”という感想を持つことができる特集記事。読みたくない文章を読まず、読みたい部分を読む、という訓練には、新聞はぴったりだとも思います)