寝食を忘れる、について。
仕事は面白くないことをするからその労働の結果やそれにかけた時間に対価が支払われる。面白いことは、遊びであるから、対価を払うことはあっても貰うことはない。
いやいや、という向きもあるだろう。好きなことを仕事にしている人もいるだろう。面白い事でお金を稼いでいるひとはたくさんいるのだ、と。
一瞬、あるいは一定期間はそうかもしれない。だが楽しいことを仕事にしても、それが対価を得るほど高度なものであれば、いろいろな工夫や苦労が次第に重荷になることもある。純粋に特撮をしたいと(例が妙に狭いですが)例えば東映に入ったが、子供の玩具が売れるようなデザインとストーリーで、と強制されて思うように作品が作れない、とか。
フランスのジャック・デュミを思いだす。とにかく映画がつくりたい、自分の頭にあるサーガ、全てが時系列的にゆるやかに、時に緊密につながっている、いわば自身の脳内の世界、自身が創造神となれる世界を夢みていたはずだ。
だが思いの通り撮影するには、とにかく金がかかる。フランス・ヌーベルバーグは低予算作品だ、とあったが、彼の映画には多くの費用がかかる。使いたい俳優陣も希望としては豪華で金がかかる。
なので、シェルブールが当たったあとも、彼は資集めに奔走した。なかなか出資者が現れず、実現しなかった作品も多かったという。
だが作品を享受する我々というか私個人は、そうした思いの籠った作品を素晴らしい、と思う。1作だけでも素晴らしい。
他人事であれば、非常にあつかましくなってしまう。思いの籠った良い作品を1作作ってくれればそれでいいと思ってしまう。だが、生活者としての監督個人としては。
難しい問題だ。真に素晴らしい作品は、真に好きなことを仕事にした人にしか、やはり作れないのかもしれない。
森博嗣氏のエッセイを読んでいたら、大学に企業からドクターとなるために派遣されてきた人の話があった。会社人なので時に指導員である森先生よりも高齢であったりする。学生から先生になった森先生は、昼時になっても昼食を摂るのを忘れて研究に没頭することがしょっちゅうであり、わすれたときは食べずにすませたり、むしろたまに絶食するのも体にいい、という発想であられた、という。
一方で企業で仕事をこなしてきた人は、昼食はキチンと食べるのが当たり前いう発想である。私もそうだ。
この差を興味深く感じられた森氏だが、それを読んで非常にうらやましく感じた。仕事が寝食を忘れるほど楽しい、ということだからだ。
企業に入ってしまえば、その人も勿論森氏と類似の経歴で学ばれたかただろう。だが、”昼食、という仕事を強制的にSTOPできる仕組みが大切だ”という心境にあった、ということだろう。つまりは仕事は楽しくないのだ。
研究生活が時に寝食を忘れるほど楽しかった、とおっしゃる森さんだが、年齢が上がるにつれ研究一色ではなく、管理者としての仕事が多くなる。それを嫌って、ある時期に大学を辞され、筆一本の生活となられたのだ。
つまりは、大学の研究職は、夢のような時代だ、ということだろう。それが、それのみが、やっていて楽しい仕事だ、といえるのかもしれない。
(しかし研究だけして一生過ごせないのは、前半の仕事が楽しい分、逆につらいのかもしれません。人が大学に残りたいのは、教育をしたいのではなく、研究をしたいからなんですね。でも政府は”即戦力養成機関”とだけ大学を捉えている。このGDPがある以上、両者は永遠に敵、であるのかもしれません)