夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

日記とは。

正月三が日。

あっというまに日は過ぎる。

私が日を過ぎるのか、日が私を過ぎてゆくのか。

過ぎる、とはなにか。

 

日記とは過ぎゆく日々を記録しておこう、という行為だと思いますが、誰に対してのものでしょうか。

勿論自分の為、というのが普通でしょうが、過去の自分を未来の自分に伝えるため?記憶というものが不確かなものだ、と思っているからでしょうか。

最近は森博嗣氏のエッセイを良く読んでいます。日々の暮らしが淡々と綴られています。やったことと考えたことがバランスよく並んでいる感じが心地いいのですが、よく読む一番の理由は、私との視点の違いがあるから、でしょうか。

森氏は元名古屋大学助教授、理学博士となると、普通ならもっとも私とは縁遠い方、となるのですが、マンガやイラストを描かれ、私が敬愛する山田章博先生と同じサークルで同人誌を作ってらした、というプロフィールを知ると一気に身近に感じます。

理系、文系と分けるのはどうか、という議論がありますが(私は考えると頭が沸きそうになる算数をある時点からやらなくてよくしてくれたこの仕組みには感謝しかないのですが)、森氏の文章を読んでいて一番楽しいのは、ものごとへの森氏の視点が私とはまったく違う点、なのです。

本が好きで、文章を読むのも書くのも(ある程度)好き、となると、接する文章は私の場合やはり”この書き手は文系だなあ”と感じるものがおおいのです。

思考回路が似ているのか、考え方の方向が自分と似ているなあ、と思うものがおおいです。これが“共感”というものなのか?ですがなんとなく”思考の馴れ合い”というマイナス面も感じていました。

なので、視点が全く違う、いわゆる”鳩豆状態”になってしまう文章は、あまり経験がなく、とても新鮮に感じます。

森氏は、そのエッセイで、本を読む理由は、違う思想を知るためだ、とおっしゃっています。また、頭の中にある考えは、文章にすると死んだ情報となる、ともおっしゃっています。

思想を頭の中において熟成させることの重要性の指摘です。

私は何となく、思想は頭の中にある段階ではまだ未完成で、文章化して可視化することが最終形である、というイメージをもっていました。ですがたとえば森氏のこの視点を知ると、”アウトプット至上主義”で本当にいいのか、という気づきをもらえるわけです。

どちらが正しいか、ではない。新しい、切り口、考え方です。

確かに、例えば絵を描く、という行為、私のスタイルは下描きを日々作り、その中から”次はこれかな”という思いで選んで銅版画化する、というパターンになってきています。

下描きはある程度たまっていますが、描いた順番に版画化しないのがいいのではないか、と最近感じています。

寝かす、という発想はなかったのですが、結果的に版画をやっていないころは、最終形にする手段がなかった、あるいは少なかったのです。

なので結果的には下描きを寝かすことになる。版画を始めたころは、数年前、時には10年近く前の下絵やアイデアを版画化することがありました。

慌てて下描きを作って版画化する。これが基本かなあ、そこには集中力があり、そのことが良いものを生み出す原動力になるのでは、とぼんやりと考えていたのですが、いや、そうでもないかもなあ、という視点です。

寝かすことで、客観的に判断できる。違う感覚で修正や加筆ができる。

そのことがなんだか気持ちいいなあ、と感じていたところに、上記の森氏の視点を得たのです。寝かすこと、思考を頭においておくことも、寝かすことの一種でしょう。

視点が違うことで、その作者、その著作群が気になって追いかけた経験は、わが敬愛する池田晶子さんに対してが最初でしょうか。

なにげなく図書館で手に取ってよんだ週刊誌掲載の短い”哲学エッセイ”。

こ、これはなんだ!!という擬音というかマンガでいう吹き出し(当然まわりは破線というか爆発というか)が頭の中に生まれました。

それからは”鬼のように(→この言い方はもうふるいのかな)”池田さんの著作を追い続けました。至福の、経験でした。

とにかく自分が持っていた考えが、基本的に残念な感じだなあ、と思っていたところへ、まさに啓蒙、きちんといただいたものを消化できているかはともかく、まったく違う視点が堂々と開陳されていたのです。

そう、”堂々”です。”文句があったらいってごらん”。

文字で書けば誤解されるような一言を、池田さんは掲げてらしたと思います。ですが読んでいけばわかる。池田さんは上記の言葉で相手を論破しようとしていない。逆に愛がある。真実を真実として分かち合おう、と実はおっしゃっているのです。

人間同士のくだらない”論戦”などではない。真実が真実を語り合う、これです。それが”文句”であっても、真実なのであればわかりあえる。当然です。

つい池田さんのことを書くと、熱くなってしまいますね。いけないいけない。

森氏の文を読んで、このことを思い出しました。本を読む意味、大切なことを教えていただいた気がしています。

 

「『科学的客観性』と呼ばれるものは、科学者個人の不党派性の産物ではなく、科学的方法の社会的あるいは公共的性格の産物であり、仮に科学者個人の不党派性というものがあるとしたら、それはこの社会的・制度的に組織された科学の客観性の起源ではなく、むしろ帰結である」(Karl Popper, The Open Society and its enemies 2, Princeton University Press, 1961,p.220)。