以前の記事で、”今自分はストレスを感じている”と思うようなときの一つの手段として、以下のケン・ウィルバーの言葉を思いだしていることを書いた。
”目撃者に落ち着く”
自己収縮を感じる。「目撃者」は自己収縮を感じているものである。
したがって「目撃者」は自己収縮ではない。
あなたは、「目撃者」である。
開け、自由、空性、解放の中に安らぐ。自己収縮を感じる。
ありのままにまかせよ(Let it be)。
すべての感覚をありのままに任せるのと同じで、あなたは雲を、木々を切り捨てるようなことはしない。それと同じように、自己収縮も切り捨てる必要はない。
ただ、あるがままにまかせよ。
そして、あなたは、あなた本来の姿である、広大な自由のなかに落ち着くのである。
この自由な空間にいる、ある時あなたは、この自由の感覚には、内側も外側もなく、その周囲もない、という気が付く。思考がこの自由のなかに漂う。世界がこの自由のなかで起きる。そして、あなたとは、それなのである。
空はあなたの頭、空気はあなたの呼吸、大地はあなたの身体である。
すべて、近く、さらに近くにあるのだ。
この自由のなかに安らぎ、落ち着いているかぎり、あなたは世界である。
あなたは無限の充満性(フルネス)、無限の円満である。
今朝、なんとなくいろいろなストレスを感じていた。
そのストレスを見ていると、”なにか自分を不安にさせる=喪失を恐れる”気持ちがあった。
そしてその次に、”喪失を恐れることは、よくないことだ”という思いがある、あるいは裏にあることがわかった。
そして”よくないことだ”という思いをもつこと”こそが、ストレスを生み出していることが見えてきた。それこそがエゴだ。
エゴ。
喪失=時間、という概念が生む。本来は時間はない。ただ”今”があるのだ。
恐れという思いをもつことは、悪くない。
悪い、と思わせるものがエゴである。悪いと思うのは”矮小化された、一から飛び出していると勝手に思っている”エゴである。
悪い思いをもつ、という存在理由となるから。
エゴは、エゴであることを隠し、存在し続けるために”それは悪いことだ”とささやく。そしてそれに乗じることが、エゴを延命させるのだ。
(このあたり、私の理解するエックハルト・トールです)
別に良い思いを持つ必要はない。しかし、悪い思いだって別のいいのだ。
だが、悪い思いを持つことに、人は自然と罪悪感を感じる。ここが、要注意だ。人を、”時間とこの世に”縛り付ける。
で、ここでケン・ウィルバーの言う、
ありのままにまかせよ(Let it be)
である。
ありのままにまかせよ(Let it be)
ケンは言う。
すべての感覚をありのままに任せるのと同じで、あなたは雲を、木々を切り捨てるようなことはしない。それと同じように、自己収縮も切り捨てる必要はない。
ただ、あるがままにまかせよ。
良い、雲はあるか。無い。
悪い木々はあるか。無い。
世界にある雲も木々も、森羅万象すべても、特にいいもわるいもない。
ただあるのだ。
だから悪い気持ちも、ただある。
悪く思ってはいけない、なんていうことはないのだ。
ただそうある。悪く、思ったのか。そうか。
切り捨てる必要はない。
ないのだ。
Let it be.
そして、あなたは、あなた本来の姿である、広大な自由のなかに落ち着くのである。