エーリッヒ・フロム”愛するということ”より。
「愛は自由の子」であり、
けっして支配の子ではない。
ひとりでいられるようになることは、人を愛せるようになるための
必須条件のひとつである。
愛されるには、そして愛するには勇気が必要だ
エーリッヒ・フロム(1900-1980)はドイツ生まれのユダヤ系の社会心理学者である。
「自由からの逃走」では、どうしてナチスがドイツ国民の支持を得たのか、という問題を扱うが、この”自由”と”愛”、幼少時にはそれは制限されているように感じたり、あるいは両親から受け取る形の”受け身の愛”が中心であることから、違った形、”能動的な愛”を人は求める形で成長するのだろう。
例えば自由であれば、それは日本であれば小学校(親、教師からの管理による制限)、中学校(親の管理はすこしずつ減少するが、高校入試への内申書等による教師、学校からの管理は増大、あるいは特に女子であれば友人間の仲良くならねばならない、という同調圧力による管理の増大)を経て、比較的(近隣以外への通学による幼少期からの関係性の崩壊による)高校期、そして大学期の”あまり管理されない”時期を経て、再び会社に管理される長期期間に突入する。
つまり意識しないと、人は生涯で実は自由が少ない形で長期間を過ごす。ししかし、果たして人は、全く管理されない状態を(特に日本人は)快適と思うものだろうか。
かならずしもそうではない、というのが答えであり、実態であろう。
”自由には責任が伴う”→責任は大変だ。
である。
愛、にしても自由と類似した変化過程を一般的には経るのだろう。
小学校を経て、中学校、高校、大学、会社、と進むにつれ、両親からの愛に加え、”パートナーとの愛”というテーマに遭遇する。これは自由同様、簡単ではないのだ。
そのことが、冒頭で掲げたフロムの言葉から伝わる。
聞けば、そのとおりだと思う。しかし、聞かないとその”前段階であがきがち”だ。
あがく。つまり愛を、自由を、人から与えられる形で得ることが、安易で簡単でかつ比較的楽に手に入るからだ(フロムにすれば、それは”前段階の愛”あるいは”真の愛ではないもの”となるのかもしれないが)。
そこに人は安住したい。
そこが”自由ではなくナチス”を選択したドイツ国民であり、愛が得られたと思っても長続きせずにあらたな”与えられる愛”を渇望し、苦しむ生活なのだろう。
自由、も愛、も、本質的には面倒で得難いものだ。
だが、一方で、面倒ながら、得難いので、素晴らしいものなのだ。
そんな真の自由や愛、これは結構得ることが難しいものであり、そして生涯でそれを求めてゆくことに足りるものでも、たぶんあるのだろうし、フロムが伝えようとした、
大切な真理、ということなのだろう。