そういう言葉がある。
さまざまに受け取れよう。
運命論的諦念。しかたない、あきらめよう、という受け取りが第一に来るかもしれない。
だがすこし残念だ。人として、人生を過ごしているこの瞬間を、外的要因で決められるものとしてあきらめている部分がある。
運命論が否定されるのは、この文脈だろう。
次に進めると、起きることを外的ではなく、内的に受け止める気持ちの萌芽があるステージとなろう。
受け身の運命論ではなく、自らのなかで自らのものとして物事が起きる、という感じ。
この風味を含んだ時点で、運命論は魅力的になる。
いわば運命を自主的に受け入れること。
外的規制要素として運命をみるのではなく、みずからの一部として運命を”とりこむ”。
ここの違いはすごく微妙で、気持ちの”姿勢”の違いだけなのかもしれない。
そして次の段階。
運命をこえ、時間や空間を超えた意識になれば、
もはや”運命”の語も変容し、全てのなかに溶けさる。
時間や空間という制限がなければ、
果たして”運命”の語が意味することはあるのであろうか。
特にない。
だから、運命はない。
そして、ただ、物事が起こっている。
それを見ている。
ただ、見ている。
その想いこそが”正しい”。
起きることが起きている。
ということになってくるような気がする。
ここもまた微妙。
だが、3段階を経て、変化していく想い、という風に考えている。
全ての中の一部として、物事が生起し、それをみるともなく、”目撃している”。
そしてそのことを”正しい”と表現していく。
運命、の語には”すべてが過ぎ去る”と人に感じさせるドクサが絡みついている。
そこから自由になる。そうすれば”運命”の語はこわくなくなる。
そうか、”運命論”をめぐる会話には、裏に”運命”という語への恐れが
あったのかもしれない。