夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

好きなものは、美的なのか。

普段の生活、皆さまはわからないが、僕は日々眼のセンサーにて美的かどうかを無意識にチェックして生きている気がする。

 

これは、フツウなのか。

 

全ての人がそうではないような気がするが、結構な割合のヒトがそうであるような気もする。

 

全ての人が、そうではない気がするものの、できれば僕はそうした視点で生きている人と、比較的わかりあえる気がする。

 

美的かどうかでなければ、なにで日々を判断するのか。

 

”正しいこと”?

 

あるかもしれない。ただ、僕はそういうものを見ている人はすこし苦手かもしれない。

 

正しいこと、自体はもちろん問題はないのだが、正しいこと、を目指す考え方には、どこか他人をして”正しくさせる”という視点が、あるように思う。

 

これが、いやだ。

 

美的であること、これはどこまでも個人的だ。

 

いや、個人的ではない、美もある。

 

あるのはわかっているが、美とは本質的にそこにはない。

 

個人的でない美を求めることは間違いだ。

個人的でない美が好きなひとは、真の美的人間ではない。

個人的でない美が(まあ、公共の美、というやつ)好きな人は、正しい、が好きな人と同様、友達になりにくい気がする。

 

同じ美を見て、違う美にいる。

 

そこは難しいが、大事なところだ。

 

 

伊丹十三、”ヨーロッパ退屈日記”(新潮文庫版、P.162)

”でも、自分の嫌いなものをあれこれ考えるのはとても愉しいことです。美的感覚とは嫌悪の集積である、と誰かがいったっけ。”

 

嫌悪を感じるところ、その反対としての美に敏感になる。鋭敏になる。アンテナが研がれる。

 

そういう面は確かにある。

 

伊丹は、パリに在り、パリの美しさが甘すぎる、日本語にできない、といいつつも、日本の母屋(モルタル建ての)の醜悪さを厳しく批判する。

 

パリの、イタリアの、街や海辺の美しさ、それな同じ高さの石づくりの家並、みんな同じく白と水色の縦じまで街をデコレートすることが大好き、

その”美に対する、皆さんの”阿吽の”同意、そんなところが、”みんなの外套”としての街の美しさにつながるのではないか、と言う。

 

日本人、という風にくくること、これを池田さんは厳しく戒められた。

たしかに、見えない生まれながらの束縛を理解し、完全自由になること。

 

これを我々に池田さんは伝えられた。

 

それはそれで厳しく前提をして。

 

そしてそのあとの”遊び”の部分での”美への阿吽”。

 

 

同質性の高い日本人は、人間関係で行間を読み阿吽の呼吸で生きている、のかなあなどと、この私も思ってきたわけだが、

 

美に関しては、違うなあ。

 

申し訳ないが、自分の家、管理外の美に関して、”美の阿吽”を感じその一員になる行動に関しては、

ちょっと日本人は劣る気がする。