普段の生活、皆さまはわからないが、僕は日々眼のセンサーにて美的かどうかを無意識にチェックして生きている気がする。
これは、フツウなのか。
全ての人がそうではないような気がするが、結構な割合のヒトがそうであるような気もする。
全ての人が、そうではない気がするものの、できれば僕はそうした視点で生きている人と、比較的わかりあえる気がする。
美的かどうかでなければ、なにで日々を判断するのか。
”正しいこと”?
あるかもしれない。ただ、僕はそういうものを見ている人はすこし苦手かもしれない。
正しいこと、自体はもちろん問題はないのだが、正しいこと、を目指す考え方には、どこか他人をして”正しくさせる”という視点が、あるように思う。
これが、いやだ。
美的であること、これはどこまでも個人的だ。
いや、個人的ではない、美もある。
あるのはわかっているが、美とは本質的にそこにはない。
個人的でない美を求めることは間違いだ。
個人的でない美が好きなひとは、真の美的人間ではない。
個人的でない美が(まあ、公共の美、というやつ)好きな人は、正しい、が好きな人と同様、友達になりにくい気がする。
同じ美を見て、違う美にいる。
そこは難しいが、大事なところだ。
”でも、自分の嫌いなものをあれこれ考えるのはとても愉しいことです。美的感覚とは嫌悪の集積である、と誰かがいったっけ。”
嫌悪を感じるところ、その反対としての美に敏感になる。鋭敏になる。アンテナが研がれる。
そういう面は確かにある。
伊丹は、パリに在り、パリの美しさが甘すぎる、日本語にできない、といいつつも、日本の母屋(モルタル建ての)の醜悪さを厳しく批判する。
パリの、イタリアの、街や海辺の美しさ、それな同じ高さの石づくりの家並、みんな同じく白と水色の縦じまで街をデコレートすることが大好き、
その”美に対する、皆さんの”阿吽の”同意、そんなところが、”みんなの外套”としての街の美しさにつながるのではないか、と言う。
日本人、という風にくくること、これを池田さんは厳しく戒められた。
たしかに、見えない生まれながらの束縛を理解し、完全自由になること。
これを我々に池田さんは伝えられた。
それはそれで厳しく前提をして。
そしてそのあとの”遊び”の部分での”美への阿吽”。
同質性の高い日本人は、人間関係で行間を読み阿吽の呼吸で生きている、のかなあなどと、この私も思ってきたわけだが、
美に関しては、違うなあ。
申し訳ないが、自分の家、管理外の美に関して、”美の阿吽”を感じその一員になる行動に関しては、
ちょっと日本人は劣る気がする。