これまでの人類の総数だそうである。
僕は、そのなかの一人として、在る。
人類比でいっても、そうだが、個人としてここに在るのもさまざまな偶然からである。
そしていまこうしてこの魂を持っている。
ここに至る魂もまた、いまこのようにあるのは、さまざまなめぐり合わせからである。
結果論であるが、”あれがなければ、これはなかった”。
さまざまな、出会いがある。
わが池田晶子さんともそうだ。
あのとき、ふと、最寄りの図書館の”哲学コーナ”で著書を手にとらなかったら。
もちろんあとから、出会うべくして出会っていた、と思うこともできる。
だが。
違う時期に、違う形出会っていたのなら、この”魂の錬成具合”、あ、錬成というとなにか相当出来上がっている語感があるので、言い換えれば”練り具合”というか、”かきまぜ具合”はなかったと思う。
それを古人は”縁”といった。含蓄のあることば。その言葉の深みの前に立てば、思わず頭を垂れる思いがする。
”縁を大切に”という。それはつまり、”今あるあなたを想え”そして生きているこの限りない偶然を意識して、驚け。
そして生きよ。
・・・ということになるのだろうか。
日々があわただしい。特に何も考えずとも日々は過ぎる。
意識してゆかねば。あとで、後悔するよ。
・・・気をつけて、自分に言い聞かす必要が、どうやらあるようだ。
内田樹先生のブログを拝見していたら、年を取る、ということへの一考察が。今の僕にとっての一つの指針のような気が急にしたので、一部を抜粋、張り付けさせていただく。
”年を取るというのは、どうも「私的」なものが逓減していって、生活の隅々までが「公共化」してゆくプロセスなのかも知れません。”
思えばいまだに自分自分言っている。
自分は全部、と思ってはみたいもののいまだ修行が足りないのだろう。
自分の公共化。
すこし考えて見たいフレーズだ。