えー、昔話を一つ。
高校生のころ、大学に入ると、学部によって人生がほぼ決まる、という認識だった。
そうでは無い生き方、というのも勿論あろうが、この僕の性格を僕が本音で見てみたとき、僕はそうなるタイプだろう、というのが、僕の僕への、見立て、だった。
家族はいうのだった。
”先生は貧乏だ”。
両祖父とも教師であったものの、子供達の言葉は深く心に刻まれた。それに、教わるのはどちらかというと得意だが、教えるのは出来なかった。どちらかというと、勝手な一匹狼、だった。
狼、というのはかっこよすぎるかもしれない。
会社員、というと、セールスマンのイメージ。算数がからっきしの僕は、理系から文系に変わっていた。
いやだなあ。酒のんだり、勧めたり、できるのか?
文学部はだめ、といわれていた。職がない。あって国語教師。
どちらかというと、美術系へ行きたかったが、これも行き着く先は美術教師のイメージ。一人で一家を成すなどとてもとても。
それに、詰め込み受験校だった母校ではまともな美術教育はなかった。美術部に入ろうとしたら、部員がいなかった。(結局先生なしでマンガを描いたが)
うーん。
人生のバクチとして、早稲田の一文だけは、なんとなくそれでも就職ありそう、という感じであった。よし、ブンガクブだけど、ワセダならええわな。
ワセダとバカタの違いもよくわからない(しかしバカボンのおかげでワセダの存在は小学校から知っていた)関西人は、けっきょくイメージだけであった。
・・・落ちた。
同時に受けた法学部も。倫理社会で満を持してうけたのになあ。
商、は通ったのだが、卒業したら”商人”になるというイメージがあり、迷ったすえ行かなかった。
それも縁。結局そうでなければいまここのこの私はないのだ。
宇宙はそうなったのだ。
小さいところで。。。
今となっては驚くほど昔だが、しかしワセダを受けたときには、神田の古本屋街に行った。楽しみにしていた。楽しかった。
で、澁澤龍彦。
イメージは文系ひねくれ派が好きな、ダークヒーロー。
文学少女にも人気。だがすこし、”子供向け”かもしれない。内容、ではない。好かれ方、が。
若者が一時かかる通過点、のイメージ。
あくまで個人的な印象だが。馬鹿にして、いるのではない。
いまだ大好きなのだ。
世間が通常営業の本日、会社は休日設定である。
ママチャリでボンヤリスーパーで買い物。その前に図書館に寄る。
ちくま哲学の森2 いのちの書 を手に取った。
解説で安野光雅が書いている。高峰秀子がその仕事をこよなく愛した装丁家のあの”アンノー”である。
そのふやけた印象から離れ、その書く文は鋭い。
”
穴ノアル肉体ノコト 澁澤龍彦
(中略)わたしの親友だった堀内誠一の、そのまた親友だったために語り明かしたことがあるが、彼等は申し合わせたように同じ病気で、二週間の時間差もおかずに去ってしまった。これは彼の絶筆である。”
P.398
下咽頭癌により気管支を切開、声を失った澁澤は、喉仏をなくし、気管支に穴をあけて呼吸していたのである。
”ごく若いうちから、私には、人間の肉体は一個のオブジェにほかならないという思いが強かったものだが、いま、五十代のおわりになって、私はそのことを身をもって証明したかのような、ふしぎな気持ちにとらわれている。もしかすると、私の肉体は私の理想を追いかけているのかもしれない。ふっと、そんな気のすることがある昨今だ。
穴のある肉体。男は女よりも肉体における穴の数が一つだけ少ないが、どうやら私は新たにうがった穴によって、女にひとしい穴の数を所有することができたともいえそうである。両性具有。”
P.326
軽妙に聞こえるが、どこか暗澹たる思いも垣間見える気がする。やれやれ、これがおれの肉体か。
この文章を昭和62年4月に発表後、4ヵ月後に澁澤は、死去している。
池田晶子さんの絶筆を、僕は密かにあの”温泉の話”であろうと思い定めているのだが、二つの絶筆の間に共通する、”飄々としたしかしなにがしかのなごりおしさ”のようなものを、感じる次第である。