夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

センダック。

モーリス・センダックが亡くなった。

1928年生まれということなので、84歳になるだろうか。

後述の”ミリー”の訳者である神宮輝夫氏の記述では、1946年にコルデコット賞を受賞、とある。なんと20歳前である(AMAZONの記述では63年”かいじゅうたちのいるところ”での受賞とあるが、あるいは2度の受賞か?)。
僕は網羅的にセンダックを読んだわけではないが、一生を絵に捧げた生涯ということになるだろう。

膨大であろう作品群から数点の作品を通して彼を評するのは危険かもしれないが、ひとりの絵本愛好者として極私的に、局地的に思うところを述べてみる。

僕が所有するセンダックの絵本は2冊だけだ。たぶん日本では最も有名であろう”かいじゅうたちのいるところ”(1963、センダック35歳?)、ミリー(1988、同60歳?)の2冊である。

かいじゅうたちのいるところ

かいじゅうたちのいるところ

そして図書館で今回借りた本は、”まどのむこうの そのまたむこう”(1981、53歳?)。

わずか数冊でその世界を述べるのはいささか危険であると改めて思うのだが、この3冊に共通なモチーフがあるように思う。それは現実からの一時的な異世界への移動と帰還、である。その仕組みは作品によってあやふやだったり、現実と地続きだったりするがとにもかくにも異世界への”漂い出し”が共通項である。

センダックは、ポーランドからアメリカに移住したユダヤ系であるという。推測ではあるが、ユダヤ人は集団で抑圧され、それへの反発や自己保存の意味も含めユダヤ人同士のコミッティーを”ユダヤ教”や”カバラー”なども通して構築してきた、という印象を持っている。”ユダヤ教は一文化である以上に、さらには一宗教である以上に、私たちの他者との関係の根拠であると感じるようになったのです”(モーリス・ブランショ、P.231 私家版・ユダヤ文化論 内田 樹)。

またプラトンは”饗宴(シュンポシオン)”で巫女ディオティーマから密儀伝授を受けたというが、カバラーではエーテル界やアストラル界という”この世でそこに生きていながら、それには気がつかないでいるもう一つの世界”への参入が必要だという。これは”魂の眼”や”魂の耳”という特殊器官を修行し習得することが必要であり、そこから真の「認識」(グノーシス)を得るという。(参考:大沼忠弘 実践 魔法カバラー入門)

私家版・ユダヤ文化論 (文春新書)

私家版・ユダヤ文化論 (文春新書)

いささか話が脱線して申し訳ないが、つまりはセンダックの物語の根幹を流れる傾向に、この”ユダヤ”というキーワードは大きく影響していると感じるわけである。特に子供時代、死に繋がる魂の世界から這い出して来た子供が、生きるが為にその”魂の活動”を愚鈍化させ、”稼ぐ”大人時代に入るまでの数年間を、この絵本という手段でもって思い出させ、記憶させる、ということの為に、このセンダックという作家はあったように思うのだ。少なくとも一面として。

”まどのそとのそのまたむこう”を一読、大きく感銘を受けたが、そこででてくる”ゴブリン”はなんと”あかちゃん”。さらわれた主人公の妹との見分けがつかない。主人公は”正しいやりかたをなぜかわかっていて”、ホルンを吹けばゴブリンはかわいい抗議を口ごもりつつ、”かわのながれに入りみえなくなってしまう”。

ゴブリンには悪意が感じられない。或いは死した赤ん坊なのか。妹との結婚とはすなわち妹の死の暗喩なのか。

そして主人公の少女アイダはなぜに正しいやりかたを既に知っているのか。

謎であるようで自明のことである。頭でわかるのではない、魂で知っている、という類の物語である。だから、母親はこの絵本を読んで、”グロテスクだ”と感じ、恐怖を感じる。赤ん坊が取られる(=死ぬ)暗喩、自らが忘れた世界、いつか帰ってゆく世界の隠喩。これを感じて不安にならない母親はたぶんいないであろう。

しかし幼児はこの本を”開けさせられる”そして”離れられない”。これもまた自らが尻尾をかすかに遺している世界の息吹を感じて魅入られて、ということだろう。つまり両者は同じものを感じている。そして幼児はそこに引き込まれそうになり、母親はそれを引きとめようとする。いわば、センダックは現代の”ハーメルンの笛吹き男”であったのだ。

そういう意味では、センダックが男である、というのは意味があるかもしれない。女性にはこの物語は描きにくかったかもしれない。勿論例外はあるだろう。しかし”自らから子供を奪われる話”を本能的に女性は忌諱するのではないだろうか。

そしてセンダックは略奪する側の視点、すなわち客観的に”この世を睥睨する視点”を持っている。それがカバラーのいう”魂の眼”なのかはわからない。カバラーでなくともある種の人間はそうした視点を自ら育てうるのではないだろうか。

センダックが原稿を虫眼鏡で描いている写真をMOE誌で見た。最近の写真であるだろう。そしてその作業机の後ろには、ルイス・キャロルの撮影したアリス・リデルの肖像が飾ってあった。作家は撮影の際、その画が入るよう要求したものだろうか。あるいは自然に、あるいは当たり前に、入ってきたのだろうか。

そういう意味では、”まどのそとの・・”の主人公アイダは、年齢的にもキャロルのアリスとかぶっているようだ。金髪、あるいはディズニーアニメからの水色のドレス。両者ともワンダーランドへと入り冒険するのだ。しかし眠りのなかでいわば無意識に行動したアリスに比べ、アイダは全てを知っている。眠ってさえいない。確固たる知恵と勇気を持って事にあたり完遂(赤ん坊の奪取)を行うのだ。

僕はセンダックがこの物語を描く時に、無意識であれ、意識的であれ、”僕にとってのアリス=アイダ”を描こうとした、とほぼ確信している。そして2つの物語の類似と差異を明確に意識していたことも。

アリスは不細工な赤ん坊を抱いていたら豚に変わった。アイダの妹もいささかかわいいとは離れた無垢のうるさい存在という面もあるようだ。(かわいがっているが)ずりおちそうな赤ん坊を抱いた少女の二つのものがたり。これはつまり「センダック版アリス」であったのだ。

まどのそとのそのまたむこう (世界傑作絵本シリーズ)

まどのそとのそのまたむこう (世界傑作絵本シリーズ)

調べて見ると、センダックはこの本を幼少期のリンドバークの赤ん坊誘拐殺人の記憶を契機に、描いたということだ。色濃く漂うタナトスの気配もそれで納得がいった。自らの為に絵本を描いている、という彼の立場をも鮮明に示す作品であるだろう。