夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

夏の草花たち。

7月に入り、カサブランカが咲いた。高さ1.8Mくらいでてっぺんに花が7-8個咲いて大変豪華であった。花期は約1週間というところか。花が重すぎて茎が耐えられず、近くにあったアジサイの幹から紐で押さえた。持ち上げるときに持ち重りがした。

最近の暑さで、ヒューケラが厳しい。あわてて日陰に持っていったのはなんとか持ちそうだが、移動できない株は青息吐息である。ローズマリーも厳しい感じだ。自ら動けない植物にとって、この暑さは大変厳しいのだろう。なんとか耐えて欲しいものだ。

インターネットが約1ヶ月使えなかった。僕は余りTVを見ていないのだが(仮面ライダーWと戦隊モノくらい)、ネットが使えないというのは思ったより厳しかった。端的にはこの欄とアマゾンが見ることができないこと。また図書館の予約や延長ができないこともしんどかった。その飢餓感はいいことなのかいけないことなのか。麻薬性が必ずある。従来のTVの役割をネットが担っているのは確実だろう。今IPADが話題だ。本の役割をも奪うものであると。宮崎駿は電子データは不要、紙と鉛筆があればいい、という。クリエイティブな面では賛成である。しかし今部屋に本が一杯になると、新しい本を買うのを少し控えることになる。とりあえずその辺に積み上げる、という行為はすこしストレスがかかる。そんなときに読まないよりは電子データ,という選択肢はあるような気がしている。本屋がアマゾンで代用はできぬが、本屋にいけないときに本は買える、あるいは近くにブックオフしかなく、こだわり古本屋がないヒトにはありがたい古書探求システムがある、このような状態に今までの”本購入”とちがう世界がある以上、それは存在できるだろう。それを気に入る、気に入れない、はあるにしろ。自分では使用せず、使用する他人に批判的であろうとも。

日記というかそのとき考えたことを紙にかけばよいのではあるが、こうしてタイプするという行為と紙で書く行為ではすこし頭の中を表現するスピードが違うようだ。同じ行為ではなくなってしまっている。そういう意味でも”似て非なる行為”である以上、両方がある、という状態になってゆくのであろう。

内田樹さんのブログで英語は唯一それができなければ将来路頭に迷うことが明確である中学科目である、という意味で英語嫌いを多産している、とのコメントがあった。それに対してどうすればいいか、と。英語を使って自分の魂的に面白い、という経験をすることしかないように思う。短期海外留学(カネがかかるが)。英語でしか面白いマンガが読むことができない体験とか(具体的にはそういう状況は思い描けないが)。日本語を学ぶ外人は主にマンガやアニメを読みたいという欲求からだという。ガラパゴスな日本語の状況から、日本語を学ぶしかなく、学ぶと個人的に良いことが起こる、と自ら(ここが大切)選ぶことができる。
論理的にはこの逆をやるしかないが、難しいだろう。英語をしゃべれるとなんかかっこいい、なんかCOOL、広い世界観にコネクトできる、そんな感じを持たせるべきだろう。それが具体的な利益に結びつくときヒトは魂的にはひどく学びの心を破損される、というご指摘は、自らにふり返って深く納得だ。

個人的には英語の歌等に幼児期に接する、やると利益に繋がる、ということがわからないときにそのような経験をさせるのがいいのではないか。そう思った。