夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

悲しい場面でも、最後の場所でも。

悲しい場面でも、最後の場所でも人はいつもの「暮らし」の中にいるのだ。
       荒川洋治 「忘れられる過去」 P.121

 池田晶子さんは、怪異、妖異、なにが不思議であろうか、自分が生きている、この不思議以上に、といった意味のことを述べられたが、歳をとることは、悲しみに少しずつ慣れてゆくことだと思う。

なべて世はこともなし、というのはそのような意味も多分あって、最後の場面でも世はこのままであり、うららかであったり、ウグイスが鳴いていたりするのだ。

川上未映子さんの読売新聞書評が楽しみだ。ポジションとしては、そこに”新進ガールズ枠”的なものが多分あって、綿谷りさ氏に代って川上さんが書評子となられた時に感じた。それはそれで、新聞的であり、読売では小泉今日子氏の書評も楽しみだ。

書評というのはやはり読み手のくせと傾向があり、肩書きと選ぶ本の相関関係もやはりどこかであり、本の中身とは違った一個の作品である。

僕は書評の面白い新聞が好きで、というより特段”ダ・ヴィンチ”を購入するわけでもないので、結構本を選ぶときの貴重な案内指標である。書評が面白いので、読売でも朝日でもいいのである。新聞というときの50%くらいは書評欄とイコールなのであったりする。

川上氏の書評は、自分の中では池田さんが書評をしたのならこのトーンかな、というものと非常に近い感じがする。代替、というわけではない。この本があれば、真実としてはこの書評になるな、とそういう意味での近さである。ロゴス的な近さ、といってもいいかもしれない。

で、冒頭の荒川洋治さんに行き着く。川上氏が1月10日付けで評された荒川洋治”文学の門”の内容があまりに良かった。
”散文は、社会的なもの、社会的責任をおうものであり、個人のことばを、だらだら無反省に書きつける場ではない。疑問をもったり検証したり反省することは、面倒なことだが、その面倒なことに耐えるから、表現も、書く人も信頼された。そのことが次第に忘れられてきた”。

冒頭で川上さんに引用された部分である。散文が、編集者によって一次の読者となられて、その読者は出版する、という意味では作者を指導できる立場にあり、あるいは指導すべき立場にあり、その視点と誘導がある意味散文を研ぎ澄ますことになる可能性がずっとあった。読者はそのフィルターを通したものを長らく”散文”として来た。それがこのインターネット、僕がこうして書いているような文章となってきた。当然、編集者はいない。身近に読者(顔の見える)もいない。チェックは働かない。社会的責任、ということは考えていなかった。少なくとも表面にあからさまにあらわれるものとしては。

池田さんがインターネットを問題視されたのもこのあたりで、編集者とのコラボ(自らによる書き直し以外は殆どされなかったようだが)で作り上げることばへの矜持があったのである。

であれば、こうして書き散らす、文字通りの”散文”にも自ら社会的責任を意識することが必要であろう。詩人である荒川さんは一面で特に新人詩人の第一詩集を出版する出版人でもあった。そうした眼からのことばであることを感じる。

人の第一詩集を出版する。大部分は詩人の自費出版である。詩人と金、取り合わせとしては弱弱しい感じがする。がめつい詩人、当然ありえるのだが。なにかつながりとしては?

絵本の自費出版を手がけるトムズボックスさんも、こうしたスタンスに近い気がする。

文学の門、が名古屋市の図書館では普段行く図書館以外のところに1冊しかなかったので、予約をして、検索で荒川さんの別の本(これは行きつけの図書館では1冊しかなかった)を借りて読んでいる。詩人とはことばとことばの周りと、たたずまいを大切にする人種であることを実感する。そんな本である。急いで物語を求めた若い時分は小説ばかり読んだが、小説の文章は全力で走り抜けるようなものだ。詩の文章はあっちへふらふら、こっちで寄り道、茫洋としたたたずまいを見せる。そんな”詩のことば”で書かれた”散文”集、そんな印象でゆっくり味わっている。味読、ということばが似合う本である。

文学の門

文学の門

忘れられる過去

忘れられる過去