夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

比較。

自分の位置を人と比較せぬがよし。
一切の悩みは比較より生ず。

比較を絶したる世界へ躍入する時、
人は初めて卓立して、所謂、

天上天下唯我独尊 の境地となる。

人間はある意味では自己の衷心満足し得る道を進むがよし。

但しそこには「それより生ずる一切の責任を負うの覚悟を忘る不可」との但書を要せむ。

然らざれば、これ人を誤るの語ともなるが故なり。

否この但書を附け加えてさえ、尚人を誤るの恐れなしとせず。

いわんやこれなきにおいておや。

      森信三 修身教授録 P.488 下学雑話(18)


命も要らず、名も要らず、官位も金も要らぬ人は、始末にこまるものなり。

この始末にこまる人ならでは艱難を共にして国家の大業は成し得られぬものなり。

     西郷隆盛 (竜馬がゆく4 P.44 司馬遼太郎 より)


僕は政治家ではない。政治家に、西郷のような決意を求めることは、自らがそうでないが故に、やはりあつかましいのかもしれない。

自分に出来ないことを、人に求めることは、責任感、森信三が言う”一切の責任を負うの覚悟”が無い、ということにも繋がる。


例えば、卑近な例では、高速道路ETC1000円により高速バス定期運行が困難になっており、地域路線の赤字を高速バス事業で補填しているバス会社としては、地域路線の撤退もやむなしとなる可能性があるという。

これは当然高速道路1000円、或いは無料化で波及発生する事態として想像可能なことである。又、例えば事前にETC1000円とすることでバス会社に対応を相談しても、基本的にバス会社としては答えはNO、やめてくれ、しかないであろう。

1000円ETC施行により、結果としてバス会社への影響は、仕方がない、より効果が大きい行動をとった、ということであろう。

ただ、ETC1000円は、非常に広範囲にその実施が伝わり、給付金等よりより実施した事実が実感される、ああ、高速道路1000円で安かった、得した。と思われる施策である。

そこに人気取りの意図があるのかどうか。長期的な視点はあるのか。勿論近々で余りに景気が落ち込むことは避けねばならないではあろうが。

端的に説明が不足していると感じる。とにかくなりふりかまわず無私の思いが伝われば、つまり西郷が如き思いが伝わってくれば、政治、というものは治世、治めるというのが上から目線なのであれば、世を善くするための調整業務、長いですが、に近づいてゆくように思う。

本当にそうした動きが必要になってきつつある、という実感がしている。

修身教授録 (致知選書)

修身教授録 (致知選書)

方言、というものがある。

方言、という語自体が、本当のものに対する地方の言葉、の意があるので、どうか、という議論もあるが、まあ、おいておいて。

名古屋市河村たかし氏が方言教育を実施という。

東北や名古屋では方言を恥ずかしがる傾向がある。

一方関西では、これは個人的な実感であるが、恥ずかしいという感覚は無い。というより、周りで標準語(東京弁、と言ったが)を話せる人が基本的にはいない(地元民の場合)。

なので、比較する機会がない。勿論TV等で接するのだが、なぜかそのように話さねばならぬ、ということは誰からも、聞いたことがない。例えば学校で、仙台の場合、"標準語で話しましょう”みたいな教えがあったように聞く。こうなると、自分たちの言葉はいけない、標準語が正しい、となる。

仙台の場合は、東京の方を向いて仕事をすることが多いので、実務上は有益な助言なのであろう。
しかし、神戸での小学校時代、国語の時間に朗読で当てられて、マンガ好きの僕はごく自然にマンガで学んだイントネーションで特に意識なく読んだのだが、教師に、”アンタは東京のシュッシンか?”と聞かれ、それがすこし難詰の調子が微量にあったような気がして、それで初めてそういったことを意識した。

生まれてずっと神戸地区で暮らしてきたので、そう聞かれたことでいろいろ考えた。そして微妙な問題としてこうして何十年もたっても覚えている。

つまりはこういうことなのであろう。

方言、の問題ではなく、東京に対してのスタンス、従属か敵対、あるいは並列か、によって、話す言葉が変わってくる。

河村氏は、名古屋は東京と比して、従属の意識なく行こう、ということを言いたいのかもしれない。
そしてそれは悪くはないかもしれない。

だが、すでに従属的な立場であった名古屋弁の場合、言葉の世代間での変質がある。上の世代の言葉を、”正しい名古屋弁”などと押し付けられるのは余り嬉しくない。言葉とは自分のもの、できれば自分で選んでしゃべりたいものだ。

そのときに言葉の裏にある意識、を教えてもらうことは賛成だ。その後で好きな言葉でしゃべればいいのである。そこのところでの押し付け感が、ちょっと心配である。

関西で生まれ、好きなようにしゃべってきた事が非常に幸せであった。普段しゃべっていないのに、これがなごやことばだ、と押し付けられてしゃべるのはちょっと不幸なような気がする(この”なごやことば”もちょっと気持ちわるい。方言ではない、雅な感じでプライドを持ってしゃべろう、というような押し付け感がいや増すネーミングだ。対等の意識があれば、それは”話し言葉”という名前しかないであろう)。

普段しゃべってれば別ですが。



最近気になったことをもう一つ。

本などを読んでいて、例えば食品に添付剤、のようなものが入っているとして、それを見つけた筆者が”どうして消費者が声を上げる運動をしないのか、不思議でしょうがない”というようなコメントを出していた。

集団で集まって企業に文句をいうことは、普通の動きなのかどうかということを考えた。

集団でモノをいう、ということは、ひとりでは相手がビビらないので、集団で脅しをかけよう、という要素が強いように思う。
もう少し穏やかに行けば、これだけたくさんの声が伝われば相手もマジメに受け取るだろう、ということか。

しかし、たかが食品、それで自分が中心となって文句を言う活動を盛り上げよう、などと人が思うのだろうか。集団となることが善いことだ、という意識があるように思う。

個人的にはそんな面倒なこと、と思う。企業に対し、自分を下に見ているように思う。別に企業と上下関係を争いたいとは思わない。いやなら別のものを買えばいいんではないの。

しかし、そういった活動をしないと、その事実がみんなに伝わらない、ということはあるだろう。であれば、そういった活動のベースは、自分のため、ではなく、他人のため、という意識が不可欠であろう。筆者はそういうところが言いたかったのかもしれない。であれば、自分のことで手一杯なので、人のためには動けない、というのが、集団となって声を上げない理由、ということになるのだろう。

そう考えると、自分の中で納得がいった。そういうことか。

しかし筆者はそういったことが残念なようだ。残念、ということは理由がわからないのか、あるいはわかりたくないのか。後者、であろう、たぶん。 

ここでも、責任感、や無私、ということが関係する。