政治には興味ないが、
政治のありかたには興味がある。
正しくは、正しい政治がありうるのか。
そこには人としての在り方、自我、無我、真我、そして我を無くし、融通無碍に自己の誤謬はいつでも正しい方向に変える柔軟性であるところの観音力、が関係している。
坂本竜馬は政治のありかたには関わったが、政治家にはなろうとしなかった。
それは何故なのか。
”政治とは巨獣を飼いならす術だ”(小林秀雄)
”現実の政治などというものは、全永劫の時間の中では無にも等しい。知ることをこそ愛する哲学者の魂にとして、どうしてそんなものに真剣な関心を向けることができるだろうか”(池田晶子)
そして政治の中での教育とは。
哲人国家を作るための哲人教育。
個人が個として善く生きること。
その”善く生きる”を実践する個人の集合体が、哲人国家という在り方なのではないか。
人から与えられる教育と、自ら学ぶ教育の違い。
”ただ学問を勤めて物事をよくしる者は貴人となり、富人となり、無学なるものは賓人となり下人となるなり”(福沢諭吉)
ここでいう学問とは、決して人から与えられる受け身のものではない。そういった教育には必ず国民全員が興味を持つだろう。
教育に国民が関心を持っていない、と断じた政治家にとり、教育とはそもいかなるものなのであろうか。
そこに大きな”語法のすれ違い”が間違いなく存在している。
”社会が組織化し、大衆化するほど、自主性・主体性が失われて、無意義感、無意味感が生じてくる”(安岡正篤)。