夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

転身力と、自由になろうとすることが自由であることについて。

楠木新「転身力」(中公新書)より。

「転身の3条件」
①実行、行動できる
②自分を語ることができる
大義名分を持つ

昨日は、金を貰う、ということはふつうは「監視されること」のストレスに対するバーターである、というようなことを書いた。

だが、いわゆるストレスがあまりない生活、それこそ「金利生活者」たるランティエのような境地になるにはどうすればいいのだろうか。

いまFIREということが言われる。そして日本の状況を考えると、日本円で金を貯めて将来大丈夫か、というような気もちにもなる。

その時の心構えとして、上述の楠木さんの3条件はなにかヒントになる気がする。

自由になろうとする過程こそが自由である、というのは、森博嗣さんの著書で学んだことで、そのことも数日前の日記で書いた気がする。

自由になろうとする過程、の具体的なやり方が、この3条件であるように思うのだ。

自分が、何を実行しようとしているのか。どのように自分を(世界はひとつであるにしろ)自分と感じている内側から外に発信してゆくのか。そこのベースにはなんらかの大義名分が必要だ。そう感じている。

(考え続け、SMALL STEPを試してゆくことが、自由であること、なのかもしれませんね)

 

 

監視されることが普通の働くということなのだろうが、それはストレスフルだなあ、ということについて。

ミシェル・フーコーが『監獄の誕生』で教えてくれたのは、権力関係とは煎じ詰めれば「見るもの」と「見られるもの」の位階差のことだということであった。(中略)「パノプティコンの主要な効果は、拘禁されている者につねに『自分は見られている』という意識を抱き続かせることである。それによって権力は自動的に担保されるのである。(同書32%)

もはや毎日引用している内田樹先生の「期間限定の思想」から。

自分は見られている、というのは大きく社会で昨日は考えたが、会社や学校でも勿論ある。

「見る」ことが権力であることは、自身が「見る」ことを経験することで納得する。見られることは、仮に見ている人がどんなに「いい人」であっても嫌なものだ。見る、には批判の芽が、あるからだ。

無い「目」もあるかもしれない。だが受ける側はその区別はよくわからない。だいたい「いい」目であっても、実は嫌な目に容易に変わるかもしれないのだし。

なので、「見られる」ことこそが仕事として、ストレスとして、対価を生むのである。ストレスを受けることが、対価を得る、ということとほとんどの場合イコールである。

だが、本音を言えば、そうした「監視されているからイヤイヤやる」ような仕事はしたくはない。自らが自らを監視し、責任をもって価値を生み出したいものである。

雇われること、と仕事を自分で行う事、の近くて大きな差異がある。自分のできる範囲で行えれば、そこで得られるストレスは違った種類のものとなるだろう、本質的には。

(なかなか難しいですけれど。。資格、今なら保育士と薬剤師と医師免許位ですかね。。。昔は「頑固職人」があったのでしょうが。。あ、猫に監視されるのは至福ですね✨)

権力とは。相互監視される生活の場は監獄であること。

ミシェル・フーコーが『監獄の誕生』で教えてくれたのは、権力関係とは煎じ詰めれば「見るもの」と「見られるもの」の位階差のことだということであった。(中略)「パノプティコンの主要な効果は、拘禁されている者につねに『自分は見られている』という意識を抱き続かせることである。それによって権力は自動的に担保されるのである。(同書32%)

昨日引用した、内田樹先生の「期間限定の思想」から、権力についての考察である。

まさに「卓見」とはこうした思想に対していうべきであろう。

「見られる立場にいる」こと、これは日々の生活でおおく感じていることである。

まずは世界から、日本から、社会から、「見張られている」感じがある。

特にコロナで「相互監視社会」に我々日本人がいることに改めて深く感じられた。

戦時中の「我々が苦労しているのだから平等に苦労しないやつは村八分だ」とする「隣組」の仕組みが、仕組みではなく、日本人の刷り込まれた心の原風景として不都合な真実的に脈々と残っていることを実感させられた。

これはいわゆる「自由からの逃走」であろう。自由であることは矜持と決意と意思と苦労が必要なのである。なので「自由でいることはめんどさく」、なので「自由から逃走したくなるのが、まあ普通の人間心理ですよ」というのが「自由からの逃走」という本が提示していることだ、と理解している(個人的な理解です)。

私は「議論をしたがることは悪」という考えを内蔵している。議論する奴はとんでもない、というわけだ。だがこれも森博嗣さんの本を読んで感じたのだが、「相手を信頼できれば、議論を議論としてすることはむしろ必要である」「信頼できる相手であり、自分であることが重要だ」ということから、数段未分化、未熟な残念な段階に私はいるのだ、といわねばならぬだろう。

まずは例えば学校で、「自身にとって相いれない意見を持つ人であっても、そのことで相手の人格を否定してはならない」ということを徹底的に教えるべきであろう。これは本の学校では全く教えられていないし、教えたくない、という心理が裏にあったりする。

異端者は排斥するのが当たり前だ、という心理が裏にある。だが、なりたくてなる異端ばかりではないのである。そのことを深く感じて、意識の前衛に出さねばならぬのである。

(私、全然できてないんですけどね。。。(´;ω;`))

 

 

ランティエ(金利生活者)と権力関係。

昨日はジムでINBODYをやった。前回は6月頭なので3か月経過したこととなる。

いままでは市営のスポーツセンターでトレーニングしてきたが、3か月の改修期間のみのつもりで自転車で10分、あるいて20分の24時間ジムに入った。

一番の違いは集中しやすさである。24時間であるので客数は比較的ばらけていると思われるし、器具も勿論最新だ。

一番大きかったのは照明。薄暗いところが私はとにかくすきなのだが、スポーツセンターは明々と照明が我々を照らす。

24時間ジムは薄暗く、まずはリラックスする。あとはコロナによるマスク着用。これでお互いほとんどお互いの面相はわからない。

まあ、私が近視であることもあるだろう。視力がいい人はそうでもないのだろうが、人は自分が見たいように世界をみるものだ。私にボンヤリ=みんなも見えてない(はずだ)(笑)。

そんなこんなで集中しやすいのだ。やはり違う環境に身をおくことで、客観的に一方のことがじわりわかってくる、ということだろう。

体重は0.5キロ減の63キロ。体脂肪率は約1%減の7.4%であった。2016年に測ったINBODY的な資料が出てきたので比較すると、体脂肪率で3%上がっている。6年前と大きく違うのは、腕の脂肪が減ったこと。足の脂肪は変わらないので、これはもしかするとぶら下がり健康器で懸垂と足上げ腹筋を追加するようになったことで、腕の脂肪がなくなったのかもしれない。

比較は一方の状況をあきらかにする、ということが、ここでも発生している。

内田樹先生の「期間限定の思想」を電子書籍で読んだ。1年まえだ。私は気になった箇所を日記的にルーズリーフに書き写しているが、書くと安心してすぐに忘れてしまう。1年前に考えていたことはなにかな、と思いそのページを読むと、内田先生の名言が数々書き写されているではないか。

男女関係においては、不幸であることが「常態」なのだという真理を受け容れたものだけが、ほんとうの幸福に触れるチャンスがある。(同書27%)
近代ヨーロッパにはこの種の「遊民」、すなわち膨大な数の「ランティエ」(金利生活者)たちが存在した。(同書28%)

(理由)デカルトの時代から第一次世界大戦までほとんど貨幣価値がかわらなかった。小金をため、公債を買い利子で食べる(子孫)。家は石造り。備え付けの家具什器を使う。

こうしたランティエと呼ばれた層は、1914年の戦争で貨幣価値が下落し消滅した。
そして彼らとともにヨーロッパにおけるすべての「高踏的なもの」、要するに「美しいが無意味なもの」を生産し消費する社会集団も消えたのである。
「何かを手に入れる最良の方法は、それを他者に与えることだ」レヴィ=ストロース(同書12%)
「仕事の本質は他者をめざす運動性のうちにある」(同書16%)
多くの人が考えているのとは反対に、人が奇矯な服装や奇怪な身体操作をする理由は「目立つ」ためではない。「見られない」ためなのである。ヤクザであれ、右翼であれ、パンクであれ、その「異様さ」は「私を見つめてはいけない」を意味する記号なのである。
ミシェル・フーコーが『監獄の誕生』で教えてくれたのは、権力関係とは煎じ詰めれば「見るもの」と「見られるもの」の位階差のことだということであった。(中略)「パノプティコンの主要な効果は、拘禁されている者につねに『自分は見られている』という意識を抱き続かせることである。それによって権力は自動的に担保されるのである。(同書32%)

(注)パノプティコンとはベンサムが考案した「一望監視施設」のこと。

この電子書籍は、ページではなく全体の%でその箇所を示す造りであるので、(同書 xx%)なる珍妙な表記となっておりますのでご容赦ください。

本を読むことはすばらしい、といつも勝間和代さんがおっしゃっているが、こうして自ら思いつかないような視点を提供されることは、なるほど本当に心楽しいものだ。

先賢、とはよく言ったもので、そうした人がいろいろ書き残してくれること、これは上記で内田先生がおっしゃっているような「自ら手に入れるために他者に手渡す」の最たる例であろう。

卑近な例であるが、私が楽しく取り組ませて頂いている「銅版画」、グループ展などで自作、他の方の作品の解説などをさせていただくことは、この上ない幸せであることを実際に行って知った。

ましてやご購入いただいたりしたら。本当にありがたく、天にも昇る嬉しさ、という感覚を大げさではなく感じたものだ。

あと、ランティエについても歴史的、文化的な位置づけからの気づきを頂いた。ここ日本では家とは棄損するものだ。長期持ち続けることは、石造り、地震のない国と比べて困難である。「家は自分で作らねば」というのがだいたいの皆さんの意識であろう。

家を壊せば、先祖代々の、とまでいわずとも、先代の什器でさえが継承困難である。勿論それができる旧家、というものは、今でも少数はあるのであろうが、それはレアすぎるがゆえに、日本的しがらみ、束縛もすごい気がする。

昔ランティエという雑誌もあった。そのときは「高等遊民」というイメージでいたのだが、金利生活者」というと実もふたもなく真実味が伝わってくる。

森博嗣さんが、各地域に美術館など文化施設があるのは余裕がなければ無理である、という、「不都合な真実」を示されていた。明治や大正の文豪を見ていても、森鴎外倉田百三などの例を思い出しても、やはり裕福な層がそのまま一家をなすようなケースが多かったと感じる。

ランティエしかり、有閑階層しかり、やはり「どうでもいいがあったら芳醇な文化を育むような無駄」はなかなか得られない世界で、あるのだろう。

(無駄は無駄であるがゆえに重要なのかもしれませんね。。)

 

 

森鴎外と片山廣子。

森鴎外は、1862年2月17日生まれ、1922年7月9日に亡くなっている。享年60.

片山廣子1878年生れであるから鴎外は16歳年上である。森茉莉をはじめとする子煩悩と実直な人柄を敬愛されたイメージのある鴎外であるが、軍人ということもあり、そして軍人のなかでは異色でもある医官であったということもあり、鷹揚な大人というよりは、細かい所に結構気を病むところがあったようだ。

9歳で14歳が入学年齢である医学校に年を偽って入ることができたというから、その知力がまずは際立っているだろう。若く欧州各地での見聞を持ったことがその後の人生に大きく影響しているのだろう。

当時の婦人の常として、廣子は海外へ行ったことはなく、軽井沢への避暑が大きな気分転換であったようだが、そのころのみではなく、戦後であってもなかなか海外渡航は困難な時代が長く続いたと思う。廣子の場合はプロテスタントの学校に寄宿して学んでいることから、疑似的な西洋文化の基に少女時代を過ごしているといえるだろう。実際に行くことと、生きたいと焦がれて行けないで過ごすということは、似ている部分もあろうが、熱量のある場所がまずは違う気がする。

廣子の訳を鴎外は褒めている。自身留学経験があり、飛び級どころではない飛び級をしてきたような英才をして、その訳で気になるところやまずい所を感じずに終わりまで行った、と言っている。

英才たるが故の性であろう。どうしても人の仕事に粗が見える。見えてしまう。

絵のプロは他人の絵を見ると、これは参った、かこれはいかがなものか、という2種の感慨から決して100%は逃れられないだろうと思う。自身が技術論として絵を見ることがない、という自由は、絵描きにはないのと同じであろう。

(鴎外や漱石が住んだ家に、廣子も住んだといいます。そこにも縁を感じますね)

 

 

引っ越し準備と棒に当たる犬について。

向けて、今日は中古家電を購入した。当日現地に搬送してもらうことにした。

冷蔵庫15900円。洗濯機15000円。それぞれ2017年、2008年製。三菱電機といまはなきサンヨーアクアを選んだのは、やはり国産信仰があるからなのか。

多分ハイセンスでもハイアールでもアイリスオーヤマでも、中華製が特にいかんということはない。多分10年は行けるだろう。ただそのあとの2-3年はどうだろうか。サンヨーは無くなってしまったが、家のドラムアクアは未だ長年頑張っている。

東京であれば配送料無料で設置もしていただけるとか。レンタルより安く、廃却は多分引っ越し屋さんに頼めば15000円程度とのこと。45000円で購入して、消滅する。

さて、「犬も歩けば棒にあたる」というのは、「念ずれば叶う」と「セレンディピティ(だったか!?)」の合わせ技の意味を、発する相手によって両方もったり、いい方を感じさせたりするよき言葉だなあ、と今朝のシャワー時に思った。

夏はシャワーだ。本当は湯舟で今日の日記のネタなどをぼんやり浮かばせるのがいいのだが、夏はシャワーなのだ。

シャワー中のことなので、思いつきも若干刹那系である。いぬもあるけば・・終了、という感じである。中身はあまり考えられない。

よく欧米の方々がしんどいことがあったときシャワーをつけっぱなしで床にペタリ、とされているのを映画など(今思いついたのはダニエル・クレイグでリンドが思わず銃で人を撃ったあと悩んでダニエルが慰めるシーン)で見るのだが、日本では湯舟に浸かりっぱなし、となるのだろうか。それはそれで悩みが溶けていきそうではあるが、シーンとしてはただリラックスしているようなのんびり感が強くて、シリアスシーンにはなりにくいような気もする(まあ、アレンジ次第でしょうが)。

多分生物はすべからく海で生まれたものの進化系なので、DNAの一番最初のところに水の中にいることの愉悦と安心感が刷り込まれているのだろう。

さて、犬もあるけば、であるが、そのことわざ?を作った人は「犬」といいいながらもそれは謙遜した「我」のことであろう。うろうろ悩んででも歩いていたらなにか良い物に転機として遭遇した。まあ、そのようなことを「犬と棒」に託して示そうとした。言おうという事が結構高尚であるような気がしたのか、自身を犬に、棒にぶつかって痛い、という残念表現で敢えて人に受け入れやすくしたのだろうと思う。

だが結構ありがたい言葉だ。求めよ、さらば与えられん、という語と同じ意味でもあるのだが、その感触は全然違う。神や賢者に教えてもらうのか、犬が棒にあたる姿を自身(主語)として発見するのか。

そういう意味では結構素晴らしい仕組みと構図、なのかもしれないと思っている。

(なにかにぶち当たりたいですね。お菓子頂いた犬の画像、シェルティ大好きです)

自由を求める自由について。

森博嗣氏のブログを折に触れ再読している。

なんというのか、そう「小気味いい」というのか、常識なようでいてその徹底的に論理的な思考を開陳されると、結構な頻度で「鳩豆」状態となる。それが刺激となり、ついつい読んでしまうようだ。

自由であるためには精神が自由であることが必要である。勝間和代さんがこれもよくおっしゃる、「住宅ローンを借りていることを心のどこかで絶え間なく感じている、そしてそれを負担に感じている」ストレスは侮れない。これがあると精神は自由ではなくなる。まあ、1回くらいのローンなら忘れているかもしれないが、自身の定年後、子供に引き継がせるローンなどであれば、微細なストレス、という言い方はもはやできないだろう。じわりじわりと文字通り「精神を蝕む」ことになるだろう。

だがそうした蝕み度は、性格が結構影響するような気がする。細かいことをあまり覚えていられないたちの私はそういえば250ccのバイクを48回ローンで買ったことがある。

森博嗣 自由をつくる自在に生きる P.89
自由の価値をいうのは、過去の自分よりも、今の自分が、そしてさらに将来の自分が「より自由」になっていく変化を感じることにある。常に自由に向かって進む、その姿勢こそが自由の本質だといっても良い。目指すものが自由であるなら、目指す姿勢もまた自由である。そういう不思議な連続が自由の特性だといえる。

読んでみると当たり前のようでいて、結構気が付かなかった視点を感じる。「自由でいようとする、という姿勢自体が自由」、たしかに自由でいようとすることこそが、精神をのびやかにする。

そして精神の自由があってこその「今の自由」であることがわかる。

例えば大学生。自由である現在があるが、就職とは不自由として感じられるだろう。勿論在学中に起業するなどした少数の人は別なのかもしれない。村上春樹は確か早稲田に在学中よりジャズ喫茶を始められたような記憶がある(うろ覚えです)。精神の自由、というものを強く求める心があるようにも思う。

一方で将来の自由の気配、例えば定年(いまは65歳、もうすぐ70歳なのかもしれませんが)後なんとか蓄財や年金でやっていけそうだ、となるときに自由を感じるのだろうか。ヘイルメリー誌を立ち読みしていると、65歳で完全定年になったが、予定していた資格や体質改善になかなか取り組めない、という声が書いてあった。

例えば休暇。例えば在宅勤務。単なる一日や数日であっても、朝は勤務の時のように動けない。人間というものはある程度の不自由をうまく取り込むことも、あるいは必要なのかもしれない。

(まあ、完全な自由を目指す、というのはよい目標かもしれませんね)

 

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