夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

島国根性のグローバル化について。

大陸文明は、普遍主義・理念主義・本質主義・超越主義などを基盤とせざるをえない傾向を持ちます。陸続きで侵略や略奪が横行し、革命や政変が伝播しやすく、政権を維持するためにもそれを打倒するためにも、超越的な神・理念・価値を絶対的に必要とするのです。
群島の文明と大陸の文明 小倉紀蔵 PHP研究所

この日本に住んでいると、いわゆる大陸的な感覚と自身がずれている感じを持ち、残念な気持ちになってきた。

あるいは自らを「ガラパゴス的」などと揶揄し、仕方がない、と残念に自らを納得させてきた。

だが、それは、ここ島国に過ごす以上、ごく自然な、当たり前のことであったのだ。

それはいわば、「隣の芝は青い」状態、我が家は我が家の状況で、物事を処理するしかない、ということなのだ。

日本ではだから、超越神はいらない。八百万の神がいい感じなのだ。

他とにたような感じで、実績を踏襲し、なんとなく結果を導いてゆく。

 

基本がこの路線だろう。

もちろんその路線が、どうしようもなく世界で役に立たなくなることがある。今はWEBで嫌が応でも「グローバル化」してしまうので、先行きこの路線では無理なのかもしれない。

だが、無理であっても、日本という場所によるDNAがそのことを密かに「是」と判断すること、そしてそれがどのように「グローバルに対応できない」のかを、逃げずに考えて、対応してゆかねばならないだろう。

(苦手分野ですねえ。。。)

運動神経ゼロ人間が腹筋を毎日行うまでの心理。

毎日5分、続けられることを続けることで、継続すると結果が得られる、という実感が得られる。

私の場合は、やはりトレーニングであろう。

中学2年の時、通学途上の田舎道で電信柱にぶら下げられていたアクション俳優の腹筋が強調された映画ポスターを見て衝撃を受けた。

ニンゲンの腹は、鍛えるとこうなるのかっ!!!

言語にするとそうなるが、言語化されてはいない衝撃として、それこそひっくり返るような衝撃を受けたのだ。

考えてみると、これは小学校時代から絶え間なく感じていた、

「私は運動ができない」

というなんともいえない日々感じる劣等感に対する、一つの答えであったろう。

私は多分、今でも逆上がりができないだろう。水泳も息継ぎらしきものは数回できるが、筋力を全開で腕を振り回して、たぶん25mが限界であろう。

ゴルフをやればとにかくボールに当たらない。

野球をやれば、受けられない。

サッカーやテニスはルールさえもあやふやだ。

 

一定数そういうひとはいるのだろうが、集団生活ではとにかく肩身が狭かった。

まあ、バトルに走るしかない、ということで、テクニックのいらないものはとにかくパワー、筋肉しかなかったのだ。

自分にはこれしかない!!

 

そうあのポスターを見て思ったのだ。

 

人は幼少期に衝撃を受けたことを覚えているだろう。

私のもう一つの衝撃は「お絵描き」。

 

年上の子供が描いたライダーの絵を見て、

これは自分も描きたい、もっとうまく!!!!

 

と感じた。

 

この2つの衝撃が、私という人間の魂の叫びであるのだろう。

 

爾来何十年か、曲がりなりにも絵を描こうとし、身体を鍛えようとしてきた。

人に見せるとは、人の批評を得ることであるので、本当は自分で自分を評価すべきである、

のだが、

ひとりよがりが心配だ。客観性の取得は結構難しい。

 

等と思いつつも、身体を鍛え、絵を描く日々を送っている。

 

考えてみれば「好きなことを継続して追及している」わけである。

 

ありがたい、ことかもしれない。

(もう一つは、「本を読む」。ですがこれは幼少時からなんとなく自然に読んでいましたね。。。)

河合隼雄→村上春樹→内田樹→レヴィナス→ユング→フロイト→シュタイナー→高橋巌→吉永進一 と、図書館で本を借りることについて。

て久しぶりの出社である(これを書いているのは5月9日(月))。

いわゆる「サザエさん心境」ではあるものの、例えば学生時代やもそっと若いころよりはましなような気がする。心臓にすこしだけ毛が生えたかな。。

ありがたいことに10日間の休みであった。運動はあまりできなかったので、体重が心配だったが、今朝の朝食前の体重は65.7kgながら体脂肪率は5%というボーナストラック。たまにこのTANITA2号(2機あります)はサービスデイがあるようだ。何度も測るとボロがでそうなので、一回計量で終了した

さて、「芋ずる式読書」をいつも行っている。

タイトルにて現在借りている(購入した)本の作者を羅列してみたのだが、別に順番は入り乱れてはいる。だがなんだかうすぼんやりとつながっているような気もしている。

今週は主に村上春樹の「村上さんのところ」を読んでいる。

この本は期間限定で村上さんに直接相談ができるサイトがあり、そのうちの約1/10、3700通に村上さんが答えをされたものである。

なんというか、当意即妙で洒脱であるのだが、そのお答えには細心の注意を払われているという。たしかに、そう見える。

いろいろ心にのこるやり取りがあるのだが、そのうちで「作者に図書館で借りて読んでいます」というとその作者が不快感を示した、という事案の相談があった。

村上さんの答えは、とにかくどんな媒体でも読んでもらえば嬉しいし、読んでもらって例えば図書館で借りたなら、気に入って実際に購入してもらえると尚嬉しい、といったようなことを回答されていた。

生活者としての作家や漫画家が、自分の本は図書館で借りたり、古本屋で買ったりして読まれると、自身にその対価が払われない、ということを表明されることがあり、私などはそうか、確かに印税の仕組みは(自分は印税とは関係がない人生にいるので)なるほど印刷されて新刊として発行されて初めて発生するのか、というようなことを考えたりした。ぼんやり物で申し訳ありません。。

制作者が対価を要求するのは至極当然であり、そのことに文句は全くないのだが、例えば子供や学生は印税の仕組みをしらず、身近にその作品に接した初めての場が図書館や古本屋(含む新古書書店=BOOKOFFなど)であり、そこで初めてその作者の作品を認識して感動した、ということがあるだろう。

そういう「プリミティブ」な感想を作者に述べた際、「対価を払っていないオマエはワタシの読者ではない」と聞こえる可能性のある言葉を受けることは、繰り返すが作者のいうことは尤もであり文句はないのだが、ちょっと言われた人はつらいかな、ということも思ったりする。

それだけ渾身の、乾坤一擲の、作品なんだな、と納得はしつつであるが。

多分前後の経緯をみると、イライラがあるのだろう。漫画家であれば、はっきり言って漫画家であり続けることは難しいこともあり、1作に人生力のすべてをかける、という気合も感じられるところだ。

だが、

だがやはり、

ここは村上さんの如く、まずは「接してもらって嬉しい」ということを(いや皆さん言っているのかもしれず、「切り取り」でそう聞こえているのかもしれないが)まずはうすらなまあたたかくでもいいのだが、枕詞にして「プリミティブなファン」に差し出していただければな、と思ったりもする。

(絶版本も、ありますしね。。。)

 

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自分しかみていないひとは大人ではないだろうが、私もなかなかそういう意味での大人になれない。

戦争であれ、貧困であれ、疫病であれ、痛みと苦しみの経験を持つ人たちは誰でも「もう二度とこんな苦しみを味わいたくない」と思う。思って当然である。でも、そこからさらに一歩を進めて、「私だけではなく、誰にも同じ苦しみを味わって欲しくない」という願いを持つ人はそれほど多くない。だが、そのような願いをつよく持つ人がめざす未来だけが他者の心に触れる。そのような「未来像」だけが人種や宗教や言語の差を越えた現実変成力を持つことができる。

内田樹の研究室 5月2日

自分が今この瞬間の人間界で、なるたけ条件よく生き延びたい、と思うのは、本能といっていいのだろうか。

いいとは思うが、どこかで「それだけでいいのか」「もうすこし上を見た方が気分がいいかも」という遠い声もする

しかし「衣食足りて礼節を知る」というではないか。

人生には愛と勇気とサムマネー、とチャップリンもいったではないか。

社会が、政府が、仕組みが、人生が、「サムマネー」を自動でくれなければいけないじゃないか。

そんな気持ちもこれまた自然に沸いてくる。

でもどこか「さもしい」感じもある。

そこは「ひとまかせ」ではやはりいけない気がする。

 

そこで必要なものは、「矜持」と呼ばれるものだろうか。

いや、むしろ「やせ我慢」といわれるものに近いかもしれない。

 

ユダヤ教では、自らが生まれるまえの罪にて自身が有罪である、と教えると、これも内田樹氏から教わった。

生まれる前の罪、ということで、別に輪廻を信じている、というわけではないだろう。

普通の「論理」でいけばおかしいと感じる義務感。これは禅語の「父母未生以前の自分」(ちとうろ覚えなので正確な表現ではないかもですが)と通じている気がする。

つまりこれは、やせ我慢を生む装置なのだ。

ともすると「かっこつけ」の、「理想の押しつけ者」といわれかねないような、「優等生」のような思想を持つときの、いや、持ちたい自分であるかもしれないな、ちょっと、でへ、というとときの、「将来のちょっとした矜持をもった自分」をうむための、呪文のようなものだ。

「祈り」のようなものだ。

 

自身の利益のみを願う祈りは、正直でいいのだが、そこにちょっと「自分」以外のものを織り込みたい。

 

そんな思いを、一ミリくらいもつことが、「大人」、恥ずかし気に、だまって、押し付けない、「大人」であるような、

 

気がしている。

(なかなかに実行できないことですが←自分調べ。。)

 

コレクター心理。

何か1つのゴールを達成してしまうと、そのプロセスでこれまで夢中だったものが、とりあえず熱が冷めてしまう。

勝間和代さんがそうおっしゃっているのを読んで、深く納得したので、ここに備忘で転記しておく。

物を獲得すること(それは例えば人の歓心であったり、物であったり、資格のようなものであったり、いろいろであろうが)、それを行っている過程こそが、それだけが唯一の楽しみである、と極論することもできるだろうか。

得る、ことは進歩にも似る。

生命は進歩をいつも、本能的に求めるものなのかもしれない。

 

この言葉を読んで思い出したのが「紀州ドンファン」こと野崎幸助氏の事件である。

下世話で出羽亀な気分となってしまう事件であり、勝間さんの気づきに連動して想起するのはどうかとも思うのだが、

野崎氏はたぶん「女性にもてる」というゴールを多数設定して、それをいわゆる「資産」でショートカット的に達成しては、次のゴールを求めてしまったのではないだろうか。

これは女性の歓心を得ることをものに例えることになるかもしれないが、いわゆる「コレクター」心理にも通じる気がする。

欲しい、と思うターゲットを設定して、それを探して「お得に」(名古屋的表現であれば「おねうちに」)入手できることに血道をあげる。

こうした「コレクター心理」、私もものを集めてしまうほうなので、実はよくわかる気がするのである。

そして入手してしまうと、それを「じっくりと愛でる」ことができず、次にいきやすい。

だが「知足」、あるものを改めて見つめて満足する、ということが、古来から言われるコレクター心理への処方箋、となるだろうか。

(いやあ、つい集めてしまいます。。。)

 

 

ブレードランナーの2019年。レプリカントの生と、昆虫食とされる昆虫の生。

思ったより変わらなかったものである、未来は。

久々にブレードランナー(1982年)をアマゾンプライムで見だした。

キルビルなどでも思うのだが、いわゆる漢字文化、というか、漢字というものが醸し出す雰囲気になんともエキゾチックなものを、いわゆる欧米の人々は感じるのだろう。

よく言われるのは、英語Tシャツ。胸の英語の意味を私などは全くわからず、単にデコレーションとして視覚消費している。英語話者は結構あれを見てぎょっとしているらしい(伝聞ですが)。

漢字、そしてひらがながいわゆる英語圏では同じ扱いになるのは考えればあたりまえで、胸に書かれた意味がメチャクチャであろうとも、形として面白い、ということが最優先なのであろう。

これは例えば、漢字圏におけるひらがなでもそうだ。

香港に「優の良品」というブランドがあるが、この「の」の使い方は日本語にはない。優れた良品、と言ったとしても、「優」と「良」が意味でだぶるので普通は云わないだろう。

これはいわゆる漢字の国で「の」を見た人々が「あ、なんだかわからないが、日本由来の製品なのかな」と思わせる装置なわけである。

この、見たことはあるが、意味がよくわからない、という中途半端な立ち位置が、妙にマーケティング的には心に残るのだろう。

まあ、「優の良品」にしても、日本の旅行者が笑いながら目に止める効果さえあるかもしれない。現にこうしてそのことを思い出して語る奴もいるわけだから。

ブレードランナーを見て、感慨深かったのは、このものがたりが既に過去である「2019年」の物語であるところだ。これはとても新鮮である。あの頃は未来とはこのことであったのだ。

2019年ならこんな感じになっているだろう、という感覚をその時誰でも共有できた。

いやこの内容は未来すぎるだろう、2119年位にしとけや。

いまならそうおもうが、それほど遠くない未来の幻視として、あの物語が破綻なく存在していたのだ。

レプリカントは出現していないが、動物の細胞から、臓器であればできるようになった。あるいは代替臓器として。

そうなると、その寄せ集めでいわゆるレプリカント(これはもともとの人間からの由来が皆無なので、サイボーグとはいえない)も技術的には可能と言えなくもないのかもしれない。

昔は設定がよくわからなかったのだが、レプリカントはそう、全く一度生きた人間とは関係がない存在だったのだ。なのであれほど、簡単に処分できてしまうのだ。

人間でなければ処分していい。

だが、本当にそうか?

 

最近はどうせ殺して食べてしまうにしても、その動物になるべく苦痛を与えないようにしよう、という考え方がある。どうせ殺すのであれば偽善である、という感覚もあるが、苦痛を敢えて与えるのはやはりできるだけ避けた方がいいだろうと個人的には考えている。

だがそうするとコストと相反する。欧州から殺処分する鳥の規制を日本国で取り入れないように、と陳情する業界からの賄賂が問題となった。衆目は主に賄賂に向かったが、「殺される側の鳥の苦痛」に関しては一顧だにせず「コスト」のみの視点で大反対する業界の視点は、そもそも動物の苦痛という視点が見事に皆無なわけであり、そういうひとには「面倒な押し付け」であり「賄賂でやめてもらおう」とするのは考えてみれば当たり前なのだが、やはりちょっとレベルが高くない感じはする。

牛や豚や鳥がかわいそうだから、タンパク質は虫から取る。

言っている意味はわかるのだが、では虫は痛みを感じるのか。

仮に痛みを「人間のように」感じないにしろ、やはりその個体個体にたまたま与えられた生を頂くわけではある。虫はいくら殺してもOKというのはちょっとやはりまずいだろう。

命を生きるために頂きます、

そんな気持ちがあったほうがたぶんいい(偽善かも、とも思いますが)。

そこへいくと、植物はどうか、とか、では何も食べずに滅亡するのか、ということに行きつくので、個人的には引っかかりながらも思考停止している、というのが正直なところだ。考えることを、卑怯にも逃げている。

人、動物、虫、植物。このような順番だろうか。だが江戸時代の日本人にとっては、虫と動物は一続きの存在として認識されていたという。

西欧式の分類法が無ければ、考えてみれば当たり前かもしれない。

本来は順番をできればつけたくない。青臭いということになるだろうが、たぶん基本は皆さんそう思うはずである。

(昆虫少年でした。。。)

 

 

 

 

 

 

サイゼリアとギーターと瞑想と座禅とクリシュナ神。

昨日は来客があり、昼食に「かつうどん」を食べた。

そして夜は夜とてサイゼリヤに行ったところ、昨今のウクライナ情勢が影響したのだろうか、輸入チキン不足により2品あるチキンメニューのうちチーズ掛けのほうが販売中止であった。

安くてボリュームのあるチキンと言えばサイゼリヤであると思っているのだが、輸入に頼るもので生鮮系のものはやはりきついようだ。

本当はグリーンピースブロッコリー、アスパラガスに100円ワインをと思っていたのだが、今後は残ったチキンメニューももう食べられないかもしれないと思って、急遽チキンを食べることにした。

サイゼリヤのチキンには、糖質としてのコーンやポテトが付け合わせてあり、グルテンではないにしろ、AGEの面ではポテトは本当は避けたいところだが、残せなくて完食した。

予定通り、体重は1キロ増えて66.3キロであった。体脂肪率は13.2%と危険水域に。。

こうしてわざとらしく体重に一喜一憂しているが、これを書かないとなかなか日記を書きだせないのだ。いわばお約束的助走ですね。。

 

さて、バガヴァッド・ギーターを引き続き読んでいる。

クリシュナは神であり不生の存在、自身の意思で何度もこの世に権化する存在である、と自らのことを語っている。

一方でクリシュナが従者として仕える王子アルジュナも、クリシュナによると「覚えていないが何度も転生している」ということだ。

従者は一番重要な家来が担ったといえ、そもそも神が従者という設定は意外性があり面白い。そしてアルジュナは自身の従者、従うものであるクリシュナが神であることを知りつつ、戦に参加したくなくて、その「したく無さ」を契機にいろいろ教えを乞うている。

従者、という語が、主に従う下位のもの、という感じを生むのだが、ここではいわば賢者(ここでは神だが)がアドバイザーとして戦場に一緒に来てくれた、という感じに近いのだろうか。

だが、もしクリシュナ神は主で、王子が従うものであれば、そもそも神が人間と戦うことはないだろう。あくまで傍観者であり導くものでなければ、この説話が成立しないのである。

ギーターが昔からインドの皆さんに親しまれているのだとすれば、そこにはごく自然に「輪廻転生」がある。五感による身体の感覚が生むもの、脳髄で考えたことがら、理性、それらすべては勿論であるがこの世のものであり一過性である。そう、クリシュナは説いている。

これには納得感がある。「あの世」なるものがあろうがなかろうが、霊というものがあろうがなかろうが、それより前に、たまたま得ているこの肉体で、たまたま得ているこのSPECで、得るものはいわば「とことんたまたま」なものだ。

真我といわれるものが、神としての全の一部であるのなら、真我はこの「たまたま」を経験し、たのしんでいる、という整理もできるだろう。

人は、生命は、生物は、鉱物は、物質は、

この世の「経験」を結果的に得るために、「時間」と共にある。

そう、まあ「信じる」ではなく「設定する」こともできそうだ。

そこにはあまり「意思」がないように思う。ここで「他者の意思」を想定してしまうと、「では他者とはだれか」という疑問が湧き、そこに「他者なんているわけがない」という直感も沸いて、「妄念だ」という判断になる。

だが、物質が時間という考え方と共に在ることは事実である。この世がすべて夢であったとしても、夢としてのこの世の中に確かに「我」「私」はあるように思われる。

なので、「他者の想定による妄念だという直感」を避けるべく、「他者はいない」あるいは「他者とは我だ」あるいはシンプルに「一」と考えるのがいい。

という感じにいまはなっている。

まあ、ただ単に、ちょっと、考えているだけですが。

VRで瞑想するのが素晴らしい、と勝間和代さんがおっしゃっていました。ちょっと興味ありますが、私は浴槽の中で座禅もどきですこし座るくらいです。浮力があって楽(笑))