夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

見つける。

世界は不思議で魅惑的なものに満ちている。研ぎ澄まされた感性をもつ者が訪れるまで、それらは静かに隠れているのだ。

W.B.イエイツ

 

幸せというのは、このように小さなものを見つけて拾い上げることだ。いつも探していれば、どこにでも落ちている。探さなければ見つからない。見つけられないから、自分は不幸せだと思い込む人が多いように見受けられる。後悔というのは、過去にまで遡って、不幸せを探しているようなものだから、幸不幸どちらも、結局は本人が探して見つけている、という点では同じだ。歩いているのは、誰でも一本道。そこに落ちているものも大差はない。拾い上げる目と手が違っているだけである。

森博嗣 つぶさにミルフィーユ P.143 「ここへ来てよかった、という肯定こそ、幸せの手法である」

 

少しく共通点のようなものを感じて、イエイツと森博嗣氏の文章を並べてみた。誰でも”生まれてしまった、あとは死ぬまで生きるしかない(BY 池田晶子)”という認識の中で、意味がないと思いつつ辿る一本道のそばに咲いている花々。

それは実際の花々、季節の花々にも似て、時に麗しく、時に雑草のように見逃してしまうのだが、だが雑草は自ら雑草と名乗るものではない。

そこで足を止めれば、イエイツがいうような驚異が隠れているかもしれないし、隠れていないかもしれない。

つまりは、丁寧に生きる、ということだろう。

それも、”人に言われてではなく、自分から望んで”。

 


青い鳥を探すチルチルはもとからそこに青い鳥がいたことに気付く、というのが私の童話”青い鳥”の理解だが、これは合っているのかどうかはわからない。

だが、ここでないどこか、と思った瞬間、今をないがしろにしている。今の自分を否定している部分がどこかに、”一ミクロンでも((笑))”あるのだろう。

ちょっとした違いが善悪の違い(無いのかも)位に違っている。

ちょっとした気づきで、生はそのままの姿を現す。

 


現実とは何か。

考え、とはなにか。

”考えない”とはなにか。

 


考えないことはよくはないとわかっていても、それが”魂が選んだ”生存手段であることもある。人間、結構しんどい時もあるだろう。

 


どちらも、いいも、悪いも、無いような気がする。

 


あるがまま。

(あるがまま、はいいですよね)

模写と模倣.

模写と模倣について。

 

模倣について思いだすのは学術論文の盗用問題だ。これは他人の論文を、他人のものと言わずに自身のものと偽る、という点が、そもそも残念な発想である。ただ、偽らないで自身の結論を導くためのSTEP BOARDにするのであれば問題がない。最近よく聞く”オープン・ソース”というのはこの発想であろう。

 

ドイツ人であるデューラーの生きた時代は、イタリアでルネサンス運動が興っていた時期と重なっている、と理解している。デューラーは、工房系の家に生まれたが、自身の技術を磨くために”モラトリアム”と称して20歳頃に2年ほどイタリアに遊学していたと記憶する。

 

今なら、さまざまな情報がインターネットで入手できる。だが、この”いつでも入手できる”という感覚が曲者なのだ。いつでもできる=本気で向き合わずともよい、となるからである。

 

印刷技術が発展したことでも、そうしたことは起きたであろう。だが紙の本であれば、それの流通期間は限られるし、欲しい情報が載った本が既に絶版、ということもある。海外の本を入手するのは基本困難だ。

 

そのハードルを越えて、情報を入手しよう、という熱意、そしてその熱意が実ったことの喜び。こうしたものが、情報を入手し、咀嚼し、自分のものにする、というモチベーションにつながってくる。

 

デューラーの立場を考えれば、更に情報入手の熱意は切実なものとなる。なにしろこの数年イタリア滞在で、可能なイタリア芸術を全て吸収しないと、モラトリアム期間が終わってしまえば、もう二度とそういう機会を得ることが不可能かもしれないのだ。

 

写真など、ない。自身の目と記憶力と、そして画家であれば”模写”であろう。そこでの”模写”は自分自身の為だけに、自分自身に最も合った形での、行為となる。

 

つまりは”全く一緒でなくともよい”。似せることでだけではなく、自身の画業に役立つように、好きなように行えばよいのである。

 

ルーブル等、欧米の美術館は画学生(別に若くなくてもいいが)や絵を志すものの模写を歓迎するという。これは、新しい美術が生まれる将来の場面を生むための、美術館が、警備員の立場で出来る参加である。つまり自身が美術活動の一環である、ともいえるのだ。

仕事で、絵を見せて費用を稼ぐ(もちろん運営には必要だ)だけではない、美を生むことへの共感と協働。

 

その空間にあそび、感謝し、そして自身の思うがままに先人の苦闘の結果を感じ学ぶ。これが模写である。

 

たまたま絵のことを言ったが、これは”オープン・ソース”の意識とも通じるものであろう。従来であれば”特許”として富を生む(時として個人を億万長者に簡単にしてしまう)ものとして、囲い込んだものであろう。それを、”ただ”でオープンにする。そのことは、そしてそうする人は、自らの知識やノウハウを、人類の進歩を寿ぐために喜んで提供している、と言えるのだろう。

特許、がいけないわけではない。この仕組みがあることで、特許取得を狙ってさまざまな新しい技術が生まれる。著作権、もそうだろう。両者とも一定期間が過ぎると、権利が失効する。

 

一から、無から新しいものは作り出される。なぜかこういう思い込みにとらわれていた。

 

実際は、生み出されるものは、先人の、すべての人類がのこした”潜在意識に埋もれた共有記憶”のようなものが、関係している、という感じがする。意識的に先人の遺したものを参照するのもいいだろう。ただ、栄養を取り込むように、見るのもいいだろう。

芸術でも、あるいはこうした文章でも、そういうことがあるのだろう。

 

(ただただすばらしいものを見るのは、喜びである、というところも強いのですが)

クローンと、デモクラシー。

オルテガ・イ・ガセットというスペインの哲学者がおりましたが、この人がデモクラシーとは何かということについて、非常に重要な定義を下しています。それは「敵と共生する、反対者とともに統治する」ということです。

サル化する社会 内田樹 P.94 「気まずい共存について」

 

人と人とが暮らす。人種がある。年令がある。住んでいる環境にあるいは四季があったり、なかったり。当たり前だがなんだか忘れがちな事実。「同じ人は、一人もいない」。

先日、レプリカズ、というキアヌ・リーブスの映画をアマゾン・プライムで見た。

 

私はどうやらキアヌのファンのようで、彼がまじめなあの顔でいろいろとこなす役柄を見ると、なんとなく頑張ってくれ、という感覚になってしまう。

彼自身はその生まれや人生で、さまざまな苦労を重ねているようだ。だが、なんとなくあの顔を見ていると、”一緒に飲んだりすると面白そう”と思うのだ。彼の父親(彼が生まれてすぐ離婚してそれ以来会っていないというが)はハワイアンであったようだから、白人の母との間であのような風貌となったのだろう。どこか日本人的な感触もあり、別に私は俳優は日本人しかだめ、というわけではないが(どちらかというと女優は外人好き)なんとなく、彼の映画を見てしまう。

 

レプリカズ、という映画はどうやら評判や興行成績がよくなかったようだ。しかし、私は楽しく視聴した。話や設定が荒い、仇がしょぼい、などという意見を聞くし、倫理的にどうか、マッドサイエンティスト、というような意見もある。だが、個人的には能天気に、”一度死んだ家族を、自身の、自身のみの特殊な知識で再度取り返したハッピーエンド”として見ることができたのだ。

 

多分、自分自身に家族や子供がいるためかもしれない。そのことを失うことへの恐怖と、この話の展開であれば悲劇的な終わり方だろう、と感じていたことをいい意味で裏切られたからだ、と分析している。

 

お手軽で、マッドで、倫理に反している、という反応は理解できる。だがそれを超えたハッピーエンドが、個人的には嬉しかったようだ。

最近はすこし、バッドエンドの映画を見るのがつらくなっているのかもしれない。

 

話がデモクラシーから離れたようだが、そうではない。あの映画で出て来た考え方、つまり死者がいればそのクローンを死んだときと同じ年齢で作り、かつ死者の意識の途切れたところまでを複製し、そのクローンに移植する、というものだが、それが、そのことだけが”真の(ほぼ)生まれ変わり”と言える、というアイデアに、なるほど、と思ったのだ。

つまりはあの技術を使えば、究極は一人だけの意識を持った多数の人類が生きている、という世界が出来る。それはどうだろう、1万年位先なのだろうか。

 

どういうことか。私見では、今後の技術の方向として人類は限りなく長命になる。機械やバイオ技術を使い、身体は長持ちし、内臓は取り換えられ、病気は早期に発見されて治療される。そうすると多分、1000年位は同じ人格で”生きる”ことはできるだろう。

だが多分、どうしようもなく細胞が劣化して、次第に人の総数は減ってゆくだろう。なぜか。ある時期よりわざわざ人は子供を増やすことをやめ、今生きている人を”不死にする”ことを志向するようになる、と思うからだ。

 

その「個人」はあるいは数千年維持されるのかもしれない。だが悠久の未来には、最期の最後には、いつか人類は「最後の一人」になるだろう。

その時に、レプリカズであったクローン技術と、自身の意識をそのクローンに移植する技術があれば、本当の最後には、最期に残った人類は、自身と同じ意識を持った人間を作り、その者たちと過ごしたい、と思うような気がするからだ。

 

そこでこそ、そこでだけ、真のデモクラシーは完成する。全ての人が、基本的に同じ考えを持つからだ。もちろん、クローン人間として生まれたのちの経験は様々となる。その結果で意識はあるいは変わるかもしれない。だが、大きくは、ぶれないのだ。

 

そこで生まれる”究極のデモクラシー”の前にあるデモクラシーは、基本的には理解できない他人が近くで生きるためのルールのこととなる。初期設定で、”お互いは違いすぎるので、いやいや我慢するしかない”という義務を含んでいる。それが、それこそが”他人同士が暮らすときのルール=デモクラシー”の本質なのだ。

 

なんとなく誤解されている。別々の人間が、同じ考えになれるように”幻想”している。これが、いけないのだ。それは、夢だ。あきらめた、ほうがいい。

日本人は同質化する思想を多民族より多くもっているだろう。これは、日本が、ガラパゴス島と本質的には同じであるがゆえだ。

ただ、ガラパゴス島より、少しでかいだけ。

 


なので、皆が同じ結論となる、という幻想を、信じやすいのだろう。

だが、多分、間違っている。その考えを、思い込みをアップデートしなければ、ならないだろう。

 


陸続きの世界は、異民族が乱れ住んでいる。そういう形で、文明を築いてきた。そこで生まれたのが”お互い嫌なことをいやいや我慢するルール”つまりが”デモクラシー”なのだ。

いやいや我慢することなしで、デモクラシーを実現しようとするから、いろいろと齟齬が発生しているのが、今の日本ではないのだろうか。

 

”いやいや我慢”抜きでは、多分無理。そのことをみんなで、考えるべきであるように、思っている。

(なんかSFみたいになりましたが。。いや未来予想かな?)

かまちょ と かまとと。

省略語について。

省略語は、いわゆる”流行り言葉”として急に通常会話の中に登場する。テレビや会話の中で出てくるので、普段テレビを見なかったり、孤独だったりする人は、その言葉の存在を感知できない、という傾向もあるだろう。

 

”かまちょ”という言葉がある。聞いたときの個人的な語感はよくない。相手を揶揄する響きが顕著だ、と感じるのだ。

 

なぜだかわからないが、省略語がいわゆる一般でよく使われるようになってからは、自分の語彙に取りこみたくない、という感じがする。これはたぶんベストセラー小説を売れているときに読まず、ブックオフで100円になっていたり、5年後位にだれも予約していない図書館で借りたり、という私のなかにある“依怙地な”性格から来るのだろう(そういう方は実は結構いそうだが)。

 

勿論、みんなが使っていないときに、喜々として使ってしまうことはあるのかもしれない。そういう機会が、無いだけかもしれない、とは思っている。

 

よくある英語表記省略語、もそうだ。これは歳の行ったひとはほぼ理解できない、という状況になっている。元の言葉を知り、その頭文字(ローマ時)を英語でいうわけなので、初めてであれば会話等の流れからどのような言葉かを推測し(場合によっては英語オリジンもある)、その語から頭文字を2字あるいは3字程度で引っ張り出して、という手間が必要だ。もう死語かもしれないがKY(空気、読めない)と会社でよく使うKY(危険、予知)が同じ略語であり、一方がネガティブな意味であったりするので、会社で見る”KY”の語が滑稽に感じられることもいまだにある。

 

”かまちょ”という語は、例えば脂ぎったおっさん(わたしも大概おっさんですが)が、ドヤ顔で”この娘(こ)はかまちょだ”などと言いだすと、こころからげんなりする。一刻も早くこの場を去りたい、あるいはこのWEB画面を閉じたい、と思ってしまう。

 

そこでは”流行り言葉を知っている、おっさんだが若者目線なオレ”というたまらない腐臭が漂う。昔はよくこのタイプのおっさんに遭遇した。今は自分がおっさんなので、自分がそうなっている可能性がある。

ので、極力略語は使わないようにしている。

 

言葉にこもるドクサは、かように強烈なのだ。そもそも”おっさん”や”ミドル”なんていうことばも、聞いた瞬間テンションが下がる言葉だ。

 

ひとくくりにすること、の弊害とでもいおうか。個人でどれだけいい人でも、おっさん、と言ってしまえばおっさん特有の残念な特性を備えた人、という形容が、風味が、もれなく紐ついてしまうのだから。

 

かまとと、という語、これは日常生活ではほぼ聞いたことがない。文芸作品で見るような気がするが、製作年月日が古いものかもしれない。いまの方はあまりご存じないかもしれない。

 

これも人を揶揄する言葉だ。成り立ちからいって、”かまちょ”と似ている気がする。どちらも言っている女性を、貶している。貶しは、気分が悪い。

 

知っているくせに知らないふりをして、上品ぶったりうぶを装ったりすること。また、その人。多く女性についていう。
[補説]蒲鉾 (かまぼこ) は魚 (とと) か、と尋ねたことに由来するという。近世末、上方の遊里で用いはじめた。

 

goo辞書から引いた。遊里由来の語でもあるから、そこに働く(働かせられる)女性は、日々比較され、競争させられるしんどい世界にいたことだろう。そこで使用された相手を揶揄することばである。

 

かまちょ、という語の成立には、かまとと、という類似の嫌な言葉も連想しながら、という要素があるいは少しあったのかもしれない。

 

その語を通して、他人を冷ややかに、批判して貶す社会の存在が透けてみえること、それが私の気分を悪くするのだ、と思っている。

 

(ぜーっつたい、使わないようにしよう!!おっさんだし。)

 

もやもやを言葉にする。

【モヤモヤを言葉にすることが思考】 勝間和代


昔から勝間さんの本はちょくちょく読んでいた。最近知った言葉が上記のものだ。
人の説明を考えずに受け入れる。すべてを考えることはできないので、それはある程度必要なのだろうが、全てをそのルールで行えてしまうのが、このIT時代である。
すると原因や本質を考える機会が減るだろう。便利さとのバーターで、”考えない”のリスクがある。


私は昔から、とにかく地理が苦手である(現在形)。自分では、現実世界への期待が少なく、例えば地名や名産品を覚えるのに、”脳のメモリー”を使いたくない、使うなら別のものに、という感覚があることが、その理由の一つであるように思う。


何につかうのか。漫画家は四国の県名が全部言える人がすくないという。私も勿論言えない。私見だが青年・成年向けコミックの漫画家はそうではないだろう。いわゆる物語系、”子供むけ”漫画の作者はたぶん言えないのではないか。たとえばそういうことだ。


東京にいたころ、電車の路線図への理解0%で過ごした。全く問題なく行きたいところへ行けた。一番安いルート、一番早いルート。こうした面は本当にありがたい。限定的な我がメモリーを、例えば画廊へいって見る絵に全力で使用したい。
そう思っていた。


だが意識的であるべきだろう。しらず全てを外部に委託する生活。いわば呪文を知らない魔法使いのようなもので、結果は得てもみずからその仕組みはわからない。魔法使いは呪文を知らなければただの偏屈者だ。


自身で必要なものはなにか、それについては体力・知力を注いでいこう。
そんな意思が必要だと思う。そんなときのキイワードが”もやもや”。心が反応している状態が例えばもやもやだ。その気配に、気づきその理由を考える。
これが重要だと考えている。


(例えばマトリックスなどは、そんなもやもやから発展したストーリーである気がします)

死と朝食とグレンダイザー。

朝食について。

 

いろいろな健康法があり、自分にあったものをトライして取り入れていければいい、と思っている。グルテンフリーは医学的に明確に証明されているのかはよくわかっていないのだが、試しに取り入れてみるとなんとはなく体調がいいようだ。人といるときはグルテンフリーに拘らない、という自分ルールもある。そうしておけば人との食事(今は随分減りましたが)の際のストレスが軽減される。

 

このあたり、自ら選びトライする、という気持ちでいることがストレスを生みにくい。最近は昼食をとっていないが、これは人生で初めてのトライである。ひと月弱?のトライだが、特に空腹で溜まらない、ということはないようだ。

 

レーニングの半分は食事である、という。両方がうまく回ってこその健康であると思っている。それともう一つ、最近考えていること。それは”年をとったら死ぬ”と考えておく、ということだ。いわゆる西欧でいうところの”メメント・モリ=死を想え”というやつだ。

 

若い時は、”死について考えることさえ不吉”という感覚が自然に育っていた。身近に死がない、という環境は最近の日本でのスタンダードになっている。例えばメディア。実際の死を画面や紙面でみることは少ない。というかほぼないだろう。だが海外メディアであればリアルな死は結構普通に掲載される(タイ、などは顕著である印象だ)。

 

日本で身近な死とは、例えば”怪獣”や”怪人”の死。あるいは時代劇での”死”。

 

伝統美としての時代劇では、血が飛び散らないのがデフォルトだ。ライダーに斃される戦闘員は、死んでいるのか気絶しているのか不明である。怪人怪獣は毎週1体"死んでいる”。メディアを通じ我々は”疑似的な死”にとことん慣らされている。これは実は”死”に面しているようで”死をささいなこととして考えなくする効果”を知らず産むことにつながっている。

 

子どもの頃、”こんな怪獣や怪人が死ぬ番組は見るな”という親の意見を数回受けたようなおぼろげな記憶がある。だが特撮やロボットアニメが好きすぎて、当然やめることはできなかった。

 

こうした特撮やアニメが海外へ輸出されたとき、当然同じように初めて見た”子供の親”は目を顰めたであろう。フランスでは何度も放映され大人気であったという永井豪原作”UFOロボ・グレンダイザー”であるが、当然円盤獣は毎回破壊されて死んでいるわけで(あれは機械だったかな?)あれはフランスの親御さんにとっては”アジアの劣悪な文化輸入”であったりしたはずだ。

 

だが荒木伸吾・姫野美智の日本アニメ屈指、いや最高最善の流麗な線や人物設定にごまかされ(それはフランス人にとっても自国人に見えなくもなかったろう)グレンダイザーはフランス人の原風景の一端を占めるようになってしまったのだ(私見ですが主人公がデューク・フリードであったことが、マジンガー2種ではなくグレンダイザーがフランスへ輸入されたことの重要な要素であったと推察します)。

 

いや、朝食のことであった。健康からストレス、精神の持ち方にいたり”メメント・モリ”にまで脱線してしまった。そして”フランスへの文化侵食”にまで。。

 

まあ、つまりは食とトレーニング、そしてメンタル保持が三位一体となって良き生を生む、ということがいいたいのであった。

その中で個人的には朝食を重要視している。

 

私の朝食。

・生卵を割って、白身だけを先に“吸う”。

これは白身と納豆が栄養的に組み合わせが悪い(納豆菌になにか関係していたかな?)ということで編み出した手段だ。

・納豆と黄身、すりごまと岩塩(ミネラル補給)、オリーブオイルを混ぜる。

混ぜることでアミノ酸を活性化?

・バナナ、キウイ、オレンジ、ブルーベリー、イチゴを食べる。

果物をまず食べている。猿であった人類(アメリカ保守層にはおこられそうですが)には果物が一番身体に合った食べ物であると考えています。あと繊維。

キウイはゴールドキウイであれば、皮ごと(洗剤で洗ったうえで)食べています。これは皮と実の間に一番栄養素があるので、外国人(オーストラリア?)には皮ごと食べるのが普通ということを知ってからやってみています。

はじめはどうかと思いましたが、慣れると結構食べられる。ですがグリーンキウイの時はあの毛?が気になって身だけ食べています。ブルーベリーとイチゴは冷凍もの。

・味噌汁。味噌は発酵食品で良いと判断。味噌汁にはキャベツ、ワカメ、カボチャ、ダイコンを入れています。いわゆる野菜スープの乗り。

・ヨーグルト。カスピ海ヨーグルトという硬めのものを食べています。味つけははちみつ。できればマヌカハニーがいいのですが、高いので我慢。

ブロッコリー。冷凍ものにオリーブオイル、ポン酢をかけて食べます。

プロテインパウダー。どうしてもたんぱく質が足りないので。

・飲み物はミルクコーヒー。ミルク50%。ミルクは最近は電子レンジで温めてます(冷たいものとは風味が違う印象あり)。

 

以上のようなラインナップです。試行錯誤、トライアルをしながら現状はこれで落ち着いています。

 

(これだけ食べると結構満腹で、これで夜までもたせてます。なぜか朝食について書いているとですます調になっていました。食についてはなんだか真面目に取り組んでいる気がします)

阿る。

阿る。

 

ひとに阿る、という行為は、普通人からは卑怯なものとして嫌われるものだろう。だが多かれ少なかれ、自ら作るものを自ら以外の存在(普通人だろうが)に見せる、という時には、仮に作るときには無心であったとしても、”阿る”気持ちが1ミリ、あるいは0.1ミリかもしれないが、発生しがちである。

 

完全にこの気持ちから離れることは果たして可能なのだろうか。なんとなくだが、可能な気がしている。

 

おおかた、そういった良い素材は、「わからなかった」「外れだった」と大勢から評価を受けるが、これは価値のあるものに付き纏う抵抗であって、これこそ、「作り甲斐」と言えるものだろう。良いものを作る技は、人に気に入られたいという精神を滅した先にあるものにちがいない。いつか手に入れたいものである。 

P.159 つぼやきのテリーヌ 森博嗣

良いものを作る技は、人に気に入られたいという精神を滅した先にある”と森氏はおっしゃる。至言であろう。

 

このことを知り、多分人ではなくファンタジーな言い方にはなるが“美の神”に、捧げるものとして人がモノを創作する時、それは三昧の中でかもしれないが、

”良きもの“が現出するだろう。

 

奉ずる先は美の神であるのか、はたまた“真”あるいは”善“であるのか、という違いがあるいはあるのかもしれないが。それらに奉ずること。人ではないなにか。理想、といってもいいかもしれない。

 

私見だが、年月の厳しい審判を経てこの時代に残っているものの中には、やはりきらりと光る、“人ではないなにかに阿った”気持ちが垣間見える気がするのだ。そうした阿りをこそ、希求したいものである。

 

(美への阿り。これですね!)