夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

承認欲求について。

承認欲求について。


承認欲求は、生きるための目的に、特に幼少期や青年期になるものであるが、そのことに絡みとられすぎると苦しくなる、最終的にはうまく付き合って、克服すべきもの、というのが大体の皆さんの認識であろうか。


私自身もグルグルに巻きつかれたまま、と残念ながら言えるようだ。前に禅や神秘主義的観点で第3者的視点が必要、などと書いたものだが、まだまだ”修業が足らん”というところだろう。


身近な人(家族や学校)、世間や会社、というところで承認を得るべき目標を設定し、自らの恃むところの能力をできるだけグレード・アップしたいな、と思うことは人生の初期には間違いなく必要であろう。だがそのことに人生中末期まで終生付きまとわれることは、正直勘弁してほしい、と思ってきたのは、私がいい年になってしまったからであろうか。


承認されることが、生きるよすが、仕事と密接に関係する面がある。例えば公的な承認が入試や入社面接での合格となろう。またSNSでのいいねによる承認もまた、日常でその味を知ってしまえば、抜け出ることは大変困難であろう。


なるべく多くのひとに見てほしい、知ってほしい。そんな気持ちで私もこうして文章を書いているわけである。


だが、そこの時点からすこしでも離れ、本当の本来である、例えばだが、なにをしてもいいが、その結果がなんらかこの世界を1ミクロンでもよくする、とか、あるいは奇跡的な”今生きている”という状態を寿ぎ、燃焼する、といったような目的(世界を良くする、には他者の承認がもれなくついてきがちである点は要注意だが)により意識的になり、フォーカスすべきである、という風にいま感じてきている。


”他人の評価は気にしない!!”と嘯くだけでは不十分だ。


客観的な真の評価を、みずからきちんとできるのが、いいような気がしている。大変に難しいのだが。


(意識し続けると、すこしずつ変化するような気がしています)

考えのスケール。

考えのスケール。ということを考えた。


スケール、とは定規、あるいは基準といったことをイメージしている。

小林秀雄に「考えるヒント」があり、我が私淑する池田晶子さんにも小林の著作をベースとする「新・考えるヒント」という名作がある。考えるときのヒントという意味では、考えだすためのきっかけ、というものはあったほうがいいだろう。

最近思うのは、”一歩目のしんどさ”である。日記を書きだすのも、勉強をスタートするのも、絵を描くのも、1歩目に心理的ハードルがあり、乗り越えるためのエネルギーが必要となる。とにかくスタートしてみると、なんとなく進んでいく、ということになる。実際のものの移動や起動でも、初動に一番力が必要となる。


ヒントが必要だが、そこでヒントを思いつくために決まった規定や”ものさし”があれば、そこに機械的にあてはめて、そこでの差や反映、そこから見えること、というものがあるといいのでは、と考えたのだ。


例えば最近の私のなかでは、

鈴木大拙の禅的水平への考えの広がり

②マイスター・エックハルトの神秘論的垂直への考えの広がり

③①と②を網羅する意味での”一”あるいは”無境界”といったもの

がスケール(定規)となっている。そこから物事をみたときに私の中で起こる反応をヒントとしている。

 


新聞の投書欄を読んでいて、我々/私が普段接するメディアについて考えた。


新聞(私は現在は読売を購読)を若い皆さんが読まない、ということが言われて久しい。読み物という意味では新聞と雑誌の関係は、TVとユーチューブの関係と似ている。新聞では日本では宅配制度が整備されているので、昔は家に配られ置いてあるメディア(誰かが意思をもって置いている、というよりは、自然とあるもの)であった。新聞を作るのは、新聞社の社風や毛色があるものの、集団の”見えない新聞人”である。一方の雑誌は、もちろん複数の編集者がいるのだが、雑誌自体や記事のテーマがあり、独自の色が強い。集団というよりは”個人発信”に近い肌合いのメディアである。雑誌を購読する、という行為は、家族ではなくより個人的な判断をもって行う行為である。


TVとユーチューブの関係も似ている。TVは対象を大衆という不特定多数としており、作る側も新聞と似た集団、という印象となる。一方でユーチューブに代表されるSNSメディアは、個人が作成、基本的には視聴する個人に選択して貰うものとなる。つまりより個人向けとなり、雑誌と似た形態で提供され受領される。


紙と電子はアクセスしやすさの差があり、雑誌は苦戦している。欧米では新聞の個配制度がないと聞く。そこでは新聞はスタンドで買う、デイリーな雑誌といってもいい。日本においての国民の新聞への信頼度は高いのだが、欧米ではあまり高くはない。これは新聞が対象とする読者層の差(一般家庭=日本か、ゴシップ好きの都会人=欧米か)と、到達度合い(個配で家に毎日一定時間に届く=日本、通勤途上で気がむけばスタンドで購入=欧米)の差から来るものかもしれない。新聞はなんとか個配制度が維持できているので、新聞に馴染みのある高年齢層に対してはある程度の存在感を示している、ということになろうか。個配制度が維持できなくなったら(購買数が減れば当然そうなる)新聞は新聞の役割を終え、雑誌の一部となるであろう。


新聞と雑誌は、それを受け身で受領するか、本屋に積極的に買いにゆくか、の差が出る。TVとユーチューブ等はある意味逆であろう。TVは受け身、チャンネル選択は可能だが、例えば”面白い番組がない時間帯(個人的には休日の昼等)”には、見るモチベーションが消失する(受け身であるが故の強制力、到達力の弱さ)。ユーチューブは雑誌のように個人の嗜好に合わせ選択可であり、かつアクセスはスマホで24時間可能である。トイレでも、列車中でも、飛行機の中でも、歩きながらでも。依存していれば強迫的に情報を摂取する場合もあるが、基本的には積極的な恣意的なアクセスである。


所詮はすべて”コンテンツ”を受け取り、消費する行為のバリエーションなのだ。一番楽な方に最終的には流れるのはあたりまえ。今は”個人的に見たいコンテンツを、いつでもどこでも何時間でも、コストをあまり意識せず(サブスク的に)、それを見ていることを他人にあれこれいわれず受領できる”ユーチューブに代表されるWEBによる情報入手がもっとも楽で快適である。なので、人が結局そこに流れこむのは、当たり前というしかない。


同じく狭い世界で考えるのであれば、漫画と例えばいわゆる”本”というところでも、”所詮はコンテンツ”ということがうやむやであった時代があった。


昔はマンガは下品でできれば接するべきではないメディアだと目の敵にされた。私は不思議でならなかった。小説も、漫画も、TVも、雑誌も、絵画も、論文も、すべては所詮コンテンツである。メディアによる”傾向”はあるものの、本質的な差異はないはずだ。今のマンガの隆盛をみるにつけ、そして深堀りした日本のマンガコンテンツが世界的に受け入れられている状況をも見るにつけ、その想いが正しかったことを感じている。本質は、コンテンツが面白いかどうかである。


こうした”全てはコンテンツである”という視点を得るには、例えば前述した”すべて一である”ということや、”すべてには本来なにも境界がない”、といった考え方を、身近な日常生活にあてはめてみることをきっかけとした。


このように”考えのスケール”という視点が、自らの考えや視点をひろげたり、変えたりするきっかけになるものだ、というふうに現在感じているところだ。


(自分の思考の癖から離れ、第3者的に自らの想いを評価する、という感じでしょうか)

 

考えるヒント

考えるヒント

 

 

 

新・考えるヒント

新・考えるヒント

  • 作者:池田 晶子
  • 発売日: 2004/02/11
  • メディア: 単行本
 

 

感性とはなにか。

感性、とはなんだろうか。

感性がにぶる、という。感受性、と似たことばかもしれない。見えない心のアンテナ、というか、目の前にちょうちんあんこうの光のように垂れているイメージもある。心の琴線、という言い方もある。

これは自身、魂に元気がないと、あんこうの光は弱くなる。アンテナにそもそも引っかけよう、という気力が萎えてくる。一方で、何かに接すると思わずあんこう光(すっかりあんこうになってしまいましたが)が光りだす、ということもある。

例えば私は、太陽の光に強く反応する。いろいろ写真を撮ることが増えたが、美しい、と感じるのは太陽の光がらみが多いようだ。雲も、朝焼け、も月も、すべて太陽の光があって生まれるものである。もちろん電球の光や、自力発光する星たちも目に入っているだろう。太陽に限ったものではない。つまり、光だ。

光、あれ。

まず最初に在った言葉である。

光、から伸びるものとして、色、がある。くわしくは理解していないが、光にはすべての色が含まれていると感じる。赤やオレンジ色を見るだけで、心が浮き立つことがある。服装でも色彩学があるだろうが、色によっても気持ちの浮き立ち=感性の活性化、が起きるのだろう。

光以外で、感性に訴えるもの。これは形であろう。複雑な精密なものを見るとときめきを感じる。最も美しく感じる貌は、左右対称、シンメトリーが完璧なものであるという。対比して置かれたものも面白い。

私は個人的に腕時計が好きなのだが、いろいろな好きな要素があるが、まずはフェイスを見ることになる。多くは丸い文字盤を持つ。そこに含まれる意匠は千差万別である。文字盤を見たときの面白さは、例えば曼荼羅を見たときの面白さとも共通である。色の差異も面白い、例えば、差し色でハンドに赤や青が使われるだけで、その意匠を持った時計をしている、という意識を常に持っていたりする。それこそ”差し色”という意味の本質であろう。そういう意味では、男性にとって腕時計は唯一(実際はネクタイもそうだとおもうが、昨今のネクタイ悪役論はひどいので)の装身具、という言い方はわかる気がする。スーツ、には約束が多く、職種によるが、基本的には遊びが多いとはいえない。もちろん腕時計にもTPOと呼ばれるルールがあるのだろうが、冠婚葬祭以外の通常勤務で、営業で常に顧客に時計が見られる、ということがなければ、最近はルールが緩くなった(=自身で気にしなくてもよくなった)と感じている。この世の進化の一つだろう。

「複雑」で「まとまり」があると魅力を感じる、という分析もある。なにより複雑な要素を、まとめよう、という意思があり、まとめに使う技や感性があり、その結果として美が生まれる。

美は、生まれたとたん自らの存在理由を持つもので、生み出したものの所有物ではない。このことは、例えば子供と親の関係にも似ている。親は子供を自らが生み出した従属物である、と思い、支配しようとする傾向がある。農耕が中心であった時代、労働力、老年後自らを支えるものと期待して子どもをたくさん”所有”する。社会の中心が”家”や”ムラ”であったときは、どうしてもそういう意識となる。そうして育てられた子供もまた、自らの子供をそのように扱う。

現在の社会は、いろいろといわれるが、子供が成年後親の支配に置かれることはない、あるいは少ない、という意味では、そうした時代より進歩した、ともいえるだろう。だが、そのためには国による年金制度、親世代が子供に頼らずに生きていける手段が必要となる。韓国では詳しくは把握していないが、いまだ年金制度がない、あるいは不十分、あるいは成立して年度が浅いという。したがって、年齢により職を離れた世代が子供に頼る割合が高いという情報を見たように思う。このことが、親と子の関係、家族という意識、老年世代への意識、というものに影響するだろう。

美、が生まれてから独り歩きする、という話であった。いまは原作の二次制作も多いというか自然にある。そうした二次制作者が、作品が生まれたのち作者が原作に手を加えたことに対し、”作者が勝手なことをするな”という意見を作者に言い、作者が驚き、驚いたことを表明する、というようなことがあった。

その時は作者サイドの意見、”生みだしたものであるので、当然に改作もできる”というものがある意味当然だと思っていた。しかし、昔手塚治虫全集が講談社より刊行されていた際、手塚は自身の過去作品に、手を入れたものを全集として刊行していた。当然神様と呼ばれていた手塚に、誰も表立って批判をしていなかったように思うが、それを読む読者たる私の目には、やはり何十年も経て手をいれた箇所の画風は大きく異なっており、違和感があったことを思い出す。手塚が、過去作を見て、その時のテクニックと画力が今の自分には耐えられない、思わず修正してしまう、という気持ちは、大変によく理解できたのだが。

子ども、作品、美。その時の諸条件で、何が正解であるのかはわからない。だが、いったん生み出されたものは、その生み出された時(ある意味永遠の時)の中で、永久に固定されたもの、でもあるのだ。そしてそれを感じ味わった側が、それを後から変えようとする力に抗うこと。これはつまりはその美、その存在に対して感じたその瞬間にのみ奇跡的に存在する自らの思いを大切にしたい、他力から影響を受けたくない、ということなのであるだろう。

手塚治虫、自らの世界を作る、という姿を見せてくれた、大切な恩人です)

 

禅と神秘主義。

上田閑照は「非神秘主義―禅とエックハルト」の冒頭でこう述べる。

(『聖なるもの』(1917)の著者、ルードルフ・)オットーが、ヴェーダーンタ神秘主義に比して特に禅にエックハルトとの親近性を見たのは、この両者に、停まることなき或る独特な無窮の動性、すなわち禅においてはどこまでいっても限りなく「上に向かって開かれて」いる開放性(des Nach-oben-Offene)、エックハルトにおいては「魂の根底」に働く「内に向かっての無限性」(Unendichkeit nach Innen)を感知したからであった。

(引用中、太字は引用者による追加)

 

考え方の傾向に、名前をつけること、つまり”禅”や”神秘主義”という名前、これは実はわかりやすい反面、その言葉自身が纏う雰囲気、例えば日本語であれば漢字自体が持つその出自やドクサ(たとえばこの国において”神”という語がそもそも読むものにもたらすイメージ)(→話が飛ぶが、実は”神を信じる”にYESの日本人は少ないが、神聖なものを敬うべき、と感じる日本人がこれも欧米と比して高い、そのことは代替状況を示しており、日本人がことさら神聖なもの【神的なもの、といっていい場合もあろう】を軽んじる、ということではないと考えるが)により、大きく制限され、その言葉が示す豊穣に、言葉への警戒から残念にもアクセスしない、という結果となることがあるだろう。

 

そうなることが本当に勿体ない、素晴らしい内実がこの”禅”や”エックハルト”(=ドイツ古典神秘主義とでもいうべきか)に含まれていると感じる。

 

現前する”どうしようもない現実”と見えるこの時間と空間という”仮設定”にこれまたどうしようもなく、盲目的にとりこまれ、振り回され、悩み、落ち込み、あるいは歓喜し、踊る日々である。歓喜すること、悲嘆にくれることに、本質的な意味はない、ただそうなる。もちろん個体の感覚に歓喜は良、悲嘆は悪、となることはわかる。わかるが、しかし、意味はない。生まれてしまった、生まれたことに意味はない、あとはただ生きるだけ。大きな意味で池田晶子さんはそう言った。

 

であれば。

 

禅、で気づく。

エックハルト、で実感する。

 


何を??

 

開放は上方に限りなく広がる。

魂は、内面に無限に沈潜する。

二つの無限は当然に交差する。

 


その中に、溶けいって、同化して、安らぐ。

 

たぶん、そうすることが生きる中で、

 

大切で、必要、なのだろう。

 

 

 

執着とはなにか。

執着とはなにか。

 

Q:では、わたしたちが最後に明け渡さなければならないのは、自我の核心としての自己ではなく、それに対する執着心でしょうか?

A:なかなかわかりやすい表現でいいと思います。個人的な”わたし”が存在の核心であり、生命と”わたし”という感覚の源であるという信条に対する執着が問題なのです。どんな妨げにあっても、その幻想を明け渡すことができたとき、”わたしである”という感覚さえも普遍的で非個人的な〈わたし〉に源を発していることに気づきます。それはあたかも、日光が自ら光を発していると信じていたのが、後にその光の源は常に太陽本体であったと気づくのと同じことです。

この気づきによって、おおいなる解放がもたらされます。

わたし - 真実と主観性 - デヴィッド・R.ホーキンズ P.436

 

個人的な”わたし”が存在の核心であり、生命と”わたし”という感覚の源であるという信条に対する執着が問題なのです。

 

ホーキンズ博士はこう述べる。

 

個人的な”わたし”が存在の核心である、と思うのは、個人的な感覚ではほぼすべての、いわゆる”ものごころがついた”のちの人間が持っている思いだろうと感じている。

 

もちろん個々に聞いてみたわけではない、のだが、まずはわたし自身がそう思っている。そして、そのことに基本的に疑いを持っていないし、そういう思いが問題である、という考え方があるということも考えていない。

ので、このホーキンズ博士の視点は、大変に新鮮であると同時に、

たしかにそうかもしれない、と思ったのだ。

 


昨日のブログで、気持ちの持ち方に関するケン・ウィルバーのやり方と考えを参照した。その考え方と、こちらの考え方には、確かに通底するものがあると感じる。

 

どのあたりか。たぶん、わたし、というものを、切り離された、孤独な、孤立無援の、はかなく吹けば飛んで行き無となることを考えたくないが心のそこで激しくおそれているもの、と考えない、というあたりだろう。

 

そういう思いへの恐れから、対抗するためにしがみつく考え、というだけのものでは、それはたぶんないだろう、という感触もだ。

 

これは個人差があるのかもしれないし、例えば信心を持つ人は別の想いもあるのだろう。だが、取り急ぎ”私”はわたしのありかたとして、この”わたし”への執着と思っていないが実は執着であるところの執着に、気をつけたいと思ったのだ。

 

みなさんはどうお感じになるだろうか。多分、大事な考えどころであるような、

気がしています。

 

 

<わたし> ―真実と主観性(覚醒ブックス)

<わたし> ―真実と主観性(覚醒ブックス)

 

 

 

 

自己収縮とはなにか。(Let it be)

 

 

以前の記事で、”今自分はストレスを感じている”と思うようなときの一つの手段として、以下のケン・ウィルバーの言葉を思いだしていることを書いた。

 

”目撃者に落ち着く”

 

自己収縮を感じる。「目撃者」は自己収縮を感じているものである。
したがって「目撃者」は自己収縮ではない。
あなたは、「目撃者」である。
開け、自由、空性、解放の中に安らぐ。自己収縮を感じる。
ありのままにまかせよ(Let it be)。
すべての感覚をありのままに任せるのと同じで、あなたは雲を、木々を切り捨てるようなことはしない。それと同じように、自己収縮も切り捨てる必要はない。
ただ、あるがままにまかせよ。
そして、あなたは、あなた本来の姿である、広大な自由のなかに落ち着くのである。
この自由な空間にいる、ある時あなたは、この自由の感覚には、内側も外側もなく、その周囲もない、という気が付く。思考がこの自由のなかに漂う。世界がこの自由のなかで起きる。そして、あなたとは、それなのである。
空はあなたの頭、空気はあなたの呼吸、大地はあなたの身体である。
すべて、近く、さらに近くにあるのだ。
この自由のなかに安らぎ、落ち着いているかぎり、あなたは世界である。
あなたは無限の充満性(フルネス)、無限の円満である。

 

 

今朝、なんとなくいろいろなストレスを感じていた。

そのストレスを見ていると、”なにか自分を不安にさせる=喪失を恐れる”気持ちがあった。

そしてその次に、”喪失を恐れることは、よくないことだ”という思いがある、あるいは裏にあることがわかった。

そして”よくないことだ”という思いをもつこと”こそが、ストレスを生み出していることが見えてきた。それこそがエゴだ。

エゴ。

喪失=時間、という概念が生む。本来は時間はない。ただ”今”があるのだ。

恐れという思いをもつことは、悪くない。

 


悪い、と思わせるものがエゴである。悪いと思うのは”矮小化された、一から飛び出していると勝手に思っている”エゴである。

 

悪い思いをもつ、という存在理由となるから。

 

エゴは、エゴであることを隠し、存在し続けるために”それは悪いことだ”とささやく。そしてそれに乗じることが、エゴを延命させるのだ。

(このあたり、私の理解するエックハルト・トールです)

 


別に良い思いを持つ必要はない。しかし、悪い思いだって別のいいのだ。

 

だが、悪い思いを持つことに、人は自然と罪悪感を感じる。ここが、要注意だ。人を、”時間とこの世に”縛り付ける。

 


で、ここでケン・ウィルバーの言う、

ありのままにまかせよ(Let it be)

 

である。

 

ありのままにまかせよ(Let it be)

 

 

ケンは言う。

すべての感覚をありのままに任せるのと同じで、あなたは雲を、木々を切り捨てるようなことはしない。それと同じように、自己収縮も切り捨てる必要はない。
ただ、あるがままにまかせよ。

良い、雲はあるか。無い。

悪い木々はあるか。無い。

 


世界にある雲も木々も、森羅万象すべても、特にいいもわるいもない。

ただあるのだ。

 


だから悪い気持ちも、ただある。

悪く思ってはいけない、なんていうことはないのだ。

ただそうある。悪く、思ったのか。そうか。

 


切り捨てる必要はない。

ないのだ。

Let it be.

 


そして、あなたは、あなた本来の姿である、広大な自由のなかに落ち着くのである。

 

 

ニュー・アース

ニュー・アース

 

 


  

愛するということ。エーリッヒ・フロム。

エーリッヒ・フロム”愛するということ”より。

 

「愛は自由の子」であり、

けっして支配の子ではない。

 


ひとりでいられるようになることは、

人を愛せるようになるための

必須条件のひとつである。

 


愛されるには、そして

愛するには勇気が必要だ

 

エーリッヒ・フロム(1900-1980)はドイツ生まれのユダヤ系の社会心理学者である。

 

「自由からの逃走」では、どうしてナチスドイツ国民の支持を得たのか、という問題を扱うが、この”自由”と”愛”、幼少時にはそれは制限されているように感じたり、あるいは両親から受け取る形の”受け身の愛”が中心であることから、違った形、”能動的な愛”を人は求める形で成長するのだろう。

 

例えば自由であれば、それは日本であれば小学校(親、教師からの管理による制限)、中学校(親の管理はすこしずつ減少するが、高校入試への内申書等による教師、学校からの管理は増大、あるいは特に女子であれば友人間の仲良くならねばならない、という同調圧力による管理の増大)を経て、比較的(近隣以外への通学による幼少期からの関係性の崩壊による)高校期、そして大学期の”あまり管理されない”時期を経て、再び会社に管理される長期期間に突入する。

 

つまり意識しないと、人は生涯で実は自由が少ない形で長期間を過ごす。ししかし、果たして人は、全く管理されない状態を(特に日本人は)快適と思うものだろうか。

 

かならずしもそうではない、というのが答えであり、実態であろう。

 

”自由には責任が伴う”→責任は大変だ。

である。

 


愛、にしても自由と類似した変化過程を一般的には経るのだろう。

 

小学校を経て、中学校、高校、大学、会社、と進むにつれ、両親からの愛に加え、”パートナーとの愛”というテーマに遭遇する。これは自由同様、簡単ではないのだ。

そのことが、冒頭で掲げたフロムの言葉から伝わる。

 

聞けば、そのとおりだと思う。しかし、聞かないとその”前段階であがきがち”だ。

あがく。つまり愛を、自由を、人から与えられる形で得ることが、安易で簡単でかつ比較的楽に手に入るからだ(フロムにすれば、それは”前段階の愛”あるいは”真の愛ではないもの”となるのかもしれないが)。

そこに人は安住したい。

 


そこが”自由ではなくナチス”を選択したドイツ国民であり、愛が得られたと思っても長続きせずにあらたな”与えられる愛”を渇望し、苦しむ生活なのだろう。

 

自由、も愛、も、本質的には面倒で得難いものだ。

 

だが、一方で、面倒ながら、得難いので、素晴らしいものなのだ。

 


そんな真の自由や愛、これは結構得ることが難しいものであり、そして生涯でそれを求めてゆくことに足りるものでも、たぶんあるのだろうし、フロムが伝えようとした、

 

大切な真理、ということなのだろう。

 

 

愛するということ

愛するということ

 

 

 

自由からの逃走 新版

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生きるということ 新装版

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