いささか長い引用になるが、ご容赦あれ。
段落は原典と変えさせていただいています。そのほうが僕が読みやすいので。
「目撃者」に落ち着く
ケン・ウィルバー 存在することのシンプルな感覚 P.37より引用
自己収縮を感じる。「目撃者」は自己収縮を感じているものである。
したがって「目撃者」は自己収縮ではない。
あなたは、「目撃者」である。
開け、自由、空性、解放の中に安らぐ。自己収縮を感じる。
ありのままにまかせよ(Let it be)。
すべての感覚をありのままに任せるのと同じで、あなたは雲を、木々を切り捨てるようなことはしない。それと同じように、自己収縮も切り捨てる必要はない。
ただ、あるがままにまかせよ。
そして、あなたは、あなた本来の姿である、広大な自由のなかに落ち着くのである。
この自由な空間にいる、ある時あなたは、この自由の感覚には、内側も外側もなく、その周囲もない、という気が付く。思考がこの自由のなかに漂う。世界がこの自由のなかで起きる。そして、あなたとは、それなのである。
空はあなたの頭、空気はあなたの呼吸、大地はあなたの身体である。
すべて、近く、さらに近くにあるのだ。
この自由のなかに安らぎ、落ち着いているかぎり、あなたは世界である。
あなたは無限の充満性(フルネス)、無限の円満である。
ケン・ウィルバーはこの文章をたとえば朝晩の精神統一(座禅等か)のあとにでも読むことを勧めている。
そういう意味では、この文章は、ウィルバーの思想のベース、本質を示している、といっていいように思う。
現在は在宅勤務でいささかリズムが狂っている(場、に慣れていない)感があるが、私は会社に向かう道すがら、こんな言葉を唱えてきた。さて、どこから持ってきたものであったか。
わたくしは、非の打ちどころのない全体で、
力強く、愛と調和に溢れ
幸せである。
なんとなく、ウィルバーの言っていることと、通底しているように感じる。
つまり、このあたりが、要諦、なんだろうか。
会社へゆく、という気持ちが、落ち着く、整理できる、そして会社に行くことができる。
そのために、体が、この”わたし”が、自然と求めたことば、であるかもしれない。
もうひとつ、唱え続けた言葉がある。しかし、ウィルバーの思想に触れ、これはいささか(今日はいささかが多い(笑))小さな個、にとらわれたことばのような気がして、唱えない日もあるようになった。はたしてどうなんだろう。
”いついじだす”
いかなることがあっても物事を肯定的に考える
つねに一歩でも二歩でも前進することを考える。そのために努力することを惜しまない
いかなるときでも人生に対する明確な目的意識を持ち続ける
じぶんを信じ、他人の否定的な言動にまどわされない
大事に面し失敗を恐れない。必ず成功すると確信する。
将来の自分の望ましい姿を、微に入り細にわたり想像する。そうすると想像通りの人となると確信する。
この"となえ”も、会社にいささか(又!)行きたくない感のある自分を、鼓舞する意味で朝通勤しながら唱えてきた。会社に行きたくないんですね笑笑。
だが、ウィルバーの思想に比べ、先ほども述べたが自分、という個を、外界から守る、というのが基本の考え方であるように感じるようになったのだ。
また、すべてが今である、時は人間の発明品であり、実際は存在しない単なる考え方だ、とするのなら、”将来”というのも今考える未来である。
果たして、どちらなのだろうか。どちら、ということもないのかもしれないが。
そして、”しんどいこと”が直撃したとき、昨日だったか、記載したこの真言(笑)を脳内でぶちかまして耐えるのである。
将らす、迎えず、応じて而して蔵めず。
まあ、だいたいが、先輩(日本だなあ)の理不尽な要求に、だまって耐えて答えない、という場面の精神的支援、のために利用しました。
会社生活も、気が付くと長くなった。会社に向いてないなと思いながら来たわけだが、だからなのか、皆さんも多かれ少なかれあったろうが、このような言葉たちに助けられてここまで来た。
そしていま、”出社に及ばず”である。これもまた心細い状況であるわけである。
心細い?
そんなときは”将らず・・・
そうやって唱えているあなたは、目撃者である。自己収縮ではない。
とこうくるのである、のかなあ?