いま、とは何か。
わたしたちが過去だと思っているものは、頭に保管された、かつての「いま」の記憶の断片にすぎません。わたしたちは過去を思い出すとき、記憶の断片をよみがえらせています。それをおこなうのは「いま」です。未来というのは思考がつくりだした、想像上の「いま」です。未来がやってくる時には、「いま」として経験されます。未来について考えるとき、
わたしたちは「いま」おこなっているのです。
過去も未来も、それのみでは、現実になりません。過去と未来は、ちょうど月にたとえられます。月そのものは、発光体ではありません。太陽の光を反射して、はじめて輝くことができます。同様に、過去も未来も、「光」であり、「パワー」であり、「現実」であり、「永遠」である「いま」のおぼろげな影でしかないのです。
わたしがここで説明していることは、頭で理解できるたぐいのものではありません。これを把握した瞬間、思考から「在ること」へ、時間の世界から「いま」へと、意識の変化が起こります。すると、すべてのものが、生命力にあふれ、エネルギーを発し、「大いなる存在」とつながっているのが、はっきりと見えてくるはずです。
エックハルト・トール 原題 ”The Power of NOW"
あさりみちこ訳 ”さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる” P.74-75
今しかないこと。これは私は会社生活である出来事、ある人物からおおきなプレッシャーを受けた時、お守りのように唱えたことば、このブログでも何度か取り上げたことがあるが、荘子の”送らず、迎えず、応じてしかして蔵(おさ)めず”(漢字は一部勝手に変更)により無理やりのように感じたことだ。
はじめは、”そう考えると楽だ”という、単なる方便のように唱えていた。
だが、
いや、これは本当にそうだなあ
という感じになったのだった。
トールはそのことを言っている。過去も未来も、今のなかでエゴがエゴとして存続するために作り上げた物語。それは”時”の発明から出てきたものだ。
犬や猫を見る。かれらの魂のレベルは、会うたびに感じる。自分となんら差がない、と。
非二元論でいえば、この犬や猫は、私でもあるのだが。
まあ、近しい私とはいえない、全体の一部として、かもしれないが。
彼らに、未来という感覚はない。人間にはあるから、みずからのその思いをもって彼らを見る。
ああ、歳をとった。弱ってきた。野良で交通事故が心配だ(よく思います)。
だが、彼らの魂にはその理解はない。理解?そうであるべきものを知ることを理解というのなら、それは理解でさえないのかもしれない。
単に、”そうではない”。
いま。
けっこうしんどい時期である。
しんどい?何と比して??
あるべきように、非運命論的運命感で、
いまをいきようと思う。