禅語に父母未生以前、というものがある。
不思議な言葉であるが、わかりやすく気づきを誘う言葉でもあるだろう。
ふつうは思わない。
自分は父母から生まれた。祖先があり、繋がって生まれてくるのが生命だ。
これはいかなる生命、あるいは存在でもあることだ。
と、思っている。
これはいわゆる”ものごころがつく”ということとイコール、
ほぼ全てといっていいだろう。
私がある。このなかに、この世界に。父があり、母がある。
導かれる、父母に、世界に。
そう、思うことになる。
これが”ものごころ”である。
想えばこの”ものごころ”の語もまた味わい深い。
もの の こころ、である。
自分こころ、ではない。
この語もまた、なにかをかたりかけるのである。
いまはそのかたりかけは措くとして。
父母以前の自分、と考える。
つまりそれは
時間がないのであればまあややこしくはあるが(以前、もないからして)
そこも措くとして、つまりは物心がつく前の自分とは、ということを
考えれ、ということである。
考えれ(笑)。。
誰が、考えるかも措くとして(措いてばかりですみません)。
生まれてわけがわからない自分のこと?
まあ、ふつうはそうなりますわな。
でもちょっと違う。その先への気づきを求められているようだ(誰に?((笑))。
そう、父母はあり、無い。自らが父であるなら、母であるなら、子があるなら。
あるいは”自分が死んだあとの自分”ということもいえるのかもしれない。
幽霊?霊魂?
そうじゃなくて。
父母以前、死のあと。
どちらも一。
全部であってなにもない。
といいうことなのだろうなあ。この語は。
いわゆる”一”“全””全ては一である””私は在る””I ’m THAT"
この辺なのだろう。
悟りたい、という希望を含む思いはエゴの作用であるとすれば。
たい=Wants は違う、ということである。
ただ、そうある。気づくこと。悟りたいと思うエゴがあるがエゴなのだなあ。
それが翻って”悟り”状態、というものなのかもしれない。
全ては循環している。
全ては永遠の今である。