池田晶子さんの反語的名言。
この語のまえに”いっそ、こう思ってはどうか”という語が付くのだが。
年齢不相応に若い。
これらには浪漫(笑)ありますよね。
なんて書いていてもこの私、”私とは肉体である”を日々標榜し、
いちにち1万歩を目指していたりします(笑笑)。
だが(笑)などどいっているが、私とはこの肉体ではない、なんていう訳の分からない考え方は、池田さんの著書で出会うまで、思いもしなかった。
肉体でしかない、そも考えるまでもなく。
子供時代から成長すると、この肉体の変化に戸惑った。
日々変化する。老化、という語にはドクサとして“哀しみ”と”喪失感”がもれなく薫り憑いており使用要注意語句ではあるが、まあ事実として変化的老化はある。
そこには”私とは肉体である。そして日々老化するものである”
という哀しみが響いている。
その先にあるのはもちろん”死”。
先? 時間とはなにか、この直線的刹那感はなんなのだろう。
感じながらも感じないように一瞬一秒この脳裏にセットしていた。
考えない。死について考えると"魅入られる”。
まあだいたいそのような少年時代である。
子供がいるが、その反応を見て、やはり自分もそうだった
と最近感じたものだ。
メメントモリ。死を想え。
西洋文化?においては、土葬だからということもあるだろうが、しゃれこうべが”現世の皆さん”とだいたいはダンスを踊っている図案に人気がある。
わすれないように、露悪的ショック対応、という面があるのだろう。
日本だと髑髏はあるにはあるが、どちらかというと幽霊にリアル感があるように思う。
まあ、それはさておき。
死の恐れとは、すべての機能が分離した実体としての肉体のアイデンティティを受けいれた罰金だ。
死を恐れるのは誕生だけだ。
存在と不在は相互関連している二元性であり、これは存在感が起こったあとで初めて理解された。
それ以前は不在の感覚も存在の感覚もなかったのだ。
意識に先立って P.244 ニサルガダッタ・マハラジ
(引用の段落は、変更しています)
池田さんはよく“往って還った人”という表現をされる。
そしてその例として“四聖”を挙げられる。
現代で”私は肉体ではない”と考え得る科学者を探しての記事があったと思い、
池田さん編・著の”2001年哲学の旅”をめくったが、目当ての箇所になかなか
たどりつけず、たどりついたのは池田さんへの一問一答。
75 ーあなた(池田晶子)は人間ですか?
「一種のオバケ」
(中略)
82 -時間とは何か?
「絶対的現在」
(中略)
92 -「魂」とは何か。魂は不滅なのか。
身体は魂に比べて価値の低いものなのか?
「自己。自己性の謎。ある意味では身体は魂である」
池田晶子 編・著 ”2001年哲学の旅” P.267-268
池田さんがおっしゃっる”魂”は、”池田某”と称される”この世の私”とは別の
存在、あるいは生命に近いもののように感じているが、
”ある意味で魂でもある”とは身体もまた魂と分かれたものではないということだろうか。
そして”池田晶子”という”オバケ”。
哲学をその口を通して現出させる巫女でもあった/ある方が、その存在をオバケとおっしゃるのはやはりそうはいっても
私とは肉体でもあるが、それだけではないものでもある、
まあ、自分が肉体だ、と思い込んで疑わないのはちょっとね、
というところではないのだろうか。