夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

宗教的精神と、宗教を信じる精神。

 

宗教的精神と、宗教を信じる精神とは、まったく別のものである。

宗教的精神は、その社会の文化から心理的に自由である。

 

いかにして神と出会うか

クリシュナムルティ P.25

 

人は生まれて、いわゆる”物心がつ”くと、その人が”たまたま”うまれついた環境に気づく。

 

そしてその環境(文化、といってもいい)に影響を受けて、”わたし”つまりエゴを育ててゆく。

 

その前は、単に”生まれたから生きている”という状態といってもいいだろう。

 

ゲーム、という構図は、人生と似ている。

 

ロールプレイングゲームでは、"ゲーム内でのいち人格”を得て、ゲームをしようと”意思する”。

 

これが此の世のあれやこれや(含む人間)をやろう、という(誰が、というと、それは”神の退屈”ということになるだろうか。ただ、退屈はあるが、”神格””意思”はなく自然発生的であろうが)契機があり、こうなっている。

 

ゲームでは、種族や属性がある。わかりやすいところでは、魔法使い、戦士、といったやつだ。

 

人生でも属性は、”まわりの文化=環境”で徐々に構築される。

 

そこにはいわゆる”世俗的=いきるよすがとしての、金を産む、生活としての=宗教”があることもあるだろう。

 

たぶんここ、日本ではその縛りは薄いだろう。八百万の神をもち、自然と年古りた猫神(猫又)ややかんやしゃもじ神をもつ世界だ。

 

根底にはある種の自由祝祭感が、あるように感じる。

 

 

そうした土地で、クリスマスや初詣や、盆休みなどをして過ごす。

 

すでにこの3つの行事でおおくの宗教に接している。

 

 

天使や悪魔や人外や宇宙人や怪獣や幻獣やヒーローやヒロインに出会う。宇宙旅行も脳内では盛んである。

 

そうした中で”宗教の勧誘”も受ける。

 

イメージは複雑だ。たぶん”宗教=壺を買わされる”という印象もあるだろう。

 

布教し、私財を寄付し、来世の幸運を“贖う”。

 

 

これが神か?

 

いやあ、これはきつい。だが、どうもそういうことになっているらしい。

 

 

そこを超越して”神を信じる”ことができるのは、たぶん”無理やり”だ。

 

 

だが、そこから逃れにくいのは、たぶんそれが”周りの文化=環境”の一部だから。

 

 

そこを否定することに繋がる、無意識で。

 

 

 

そこを、クリシュナムルティは、突いている。

 

ちがいますよ。

 

 

宗教的精神、それは文化とは無関係だ。

 

 

受けいれ、感じること。

 

 

そこではじめて出会う世界。

 

 

ここはなぜだかわからないが、簡単なようで、本当にわかりにくい。

 

 

たぶんエゴの自己保全本能が利いているのだろう。

 

 

だが、

 

 

こうストレートに言われると、

 

 

なんか突破口が、うすぼんやりと見えてくるような、

 

 

気がする。

 

 

いかにして神と出会うか

いかにして神と出会うか

 

 

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