”私”の”こころ”を探ってみると、
そこに”宗教アレルギー”がある。
より正確に言うなら、”宗教を理由とする組織に入ることにより、布教や献金を強制される、あるいは”自発的”にするようになること、および自分や家族がその時間をこれまた強制的にそうしたものを行う関係性にとりこまれること”への恐れがアレルギーになっているようだ。
しかし、これは当たり前である。たぶん多くの”日本人”の皆さんは、似たような感じをお持ちなのではあるまいか。
そして、そうした組織が主にその”入るべき”理由とするのが、たぶん”死への恐れ”への対策のため、ということだと思っている。
死の恐れとは、すべての機能が分離した実体として肉体のアイデンティティを受けいれた罰金だ。死を恐れるのは誕生だけだ。存在と不在は相互関連している二元性であり、これは存在感が起こったあとで初めて理解された。
それ以前は不在の感覚も存在の感覚もなかったのだ。
意識に先立って ニサルガダッタ・マハラジ P.244
死、を学び、想う、という姿勢は古くからあった。
メメント・モリ、という言葉と共に
しゃれこうべといっしょにいる善男善女、この世の栄華をきわめた人々が
警句とともに銅版画に示されたりしている。
池田晶子さんはおっしゃった。
墓碑がすきでいろいろ見ていて出会った言葉、
”次はおまええだ”
そしてご自身がこれでいくか、とおっしゃったことば、
”さて、死んだのは誰なのか”
うーん、やはり死を個人のものとする想いに直撃する前者には、
まだ迷いがあるような。
転じて池田さん、死というものに一回赴き、”還ってきた”感を
感じるのである。
さて、今年も暮れが押し迫って参りました。
本年もありがとうございました。
”さて、歳月とは、なんなのか”