質問者: 何が事実なのでしょうか?
マハラジ: 純粋な気づきのなかで、欲望と恐れから影響を受けずに知覚されたことが事実なのだ。
アイ・アム・ザット 私は在る ニサルガダッタ・マハラジ
P.120
エゴ、或いは意識、”私”ではない私、いろいろな言い方はあるが、この身体(私とははこの身体であるか)にてこの生のなか、さまざまな”経験”を”時間”と”空間”のなかで過ごすことで得るものは、欲望と、その二面あるいは反面の貌としての恐れである。
欲望は、すべからく、恐れを産む。
恐れを産むものを、欲望と呼ぶ。
欲望は、生物として”生きる”ことの中で、生存本能や遺伝子等の影響のなかで生まれるものが多いように思う。
例えば最近の私の中で生まれた”恐れ”。
・自分が死を迎えるときに高額医療は保険料では負担しないだろう=延命はできないな
・将来生活する金は年金では賄えないだろう。貯金はできるのか
・結婚生活とは”カネと顔の交換”である、そしてそのことは”人としての未成熟”を示しているのではないか。カネはまだ生存本能だとしても、本来の自分ではない”顔”や”稼ぐちから”で人が寄り添うことは欺瞞ではないのか。しかしその欺瞞から自分は一ミリも離脱できていない、むしろどっぷりだ。顔に惹かれることは本当の美ではないのではないか。左右対称や健康度(子孫が有能、あるいは健康であること)を求める遺伝子の欲求への盲目的服従なのだろうか
などという想いが出てきた。
なんだか苦しい。そして、私を含むみんなの”生”は、このなんだか苦しい“お題”という薪に火をつけて、まわりを取り囲んで踊り狂っている。
それは”苦し楽し”だ。
苦しい、を薪とする、エゴによる"生の営み”だ。
それが、いいとか、悪いとかではなく。
それがエゴなのだ。意識なのだ。無意識に意識であることの”普通”なのだ。
そこを、”見る”。”気づく”。内部収縮として”目撃者に落ち着く”。
そこだ。
エゴがいかにけしからん、と思っても、”けしからん”こそ新規の薪。
なんと巧妙なことだろう。
であれば。
年金や、健康やこの生や”末期の想定される苦痛”や、
カオや稼ぎ力や、そのことだけでつながっている欺瞞や、
それもこれも、どうでもいい。
エゴのえさ、なのだから。
エゴは存在するために餌が必要だ。
自然に生み出すように、人をしむける。
それはエゴにとって、自然なことだ。
だが、苦しい。
苦しい?誰が?
苦しむのは”エゴ”や”時間”や、経験に無頓着だからなのでは???
欲望や恐れはなくならない。エゴも消え去ることはなかなか困難なのだろう。
だが、
エゴを見据えていう。あなたはエゴだ。
カオナシ、という妖怪がいた。
あれはなんだったのか。
妖怪ではなく、全人類、を示していたのかもしれない。
あるいはエゴ、そのものか。
いずれにしろ、カオナシは私だ。ちなみに、千も千の父母(豚になる)も
あのオハナシもみんな、
わたしだ。
となんだか広げた風呂敷が大きくなりすぎたようで。。。
ではこの辺で。
この千と千尋のDVDを張り付けてみて気づいた。
千の後ろのお二人、なんと”貪欲のエゴ”を自然発露されたご両親ではないですか!
宮崎駿という人、これはけっこう策士的覚者、なのかもしれない。