夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

夢とは、何か。

胡蝶の夢、という物語がある。

 

池田晶子さんの著作を読むと、池田さんが夢、というものに

いわば”ひっかかって”らっしゃったという印象がある。

 

翻って自分。

 

夢は、夢、という印象である。

つまり、

 

睡眠時、脳がいわば”眠った状態”で”現実”に反応する必要がなく

自由に浮遊し、”昼間”感じたことなどの影響を受けながら、

 

特に制限なく、しかし、”自分”のアナザストーリーを

目撃する。

 

ん?

 

”自分”??

 

”目撃”???

 

ユング精神分析では”夢判断”を重要視する”

実感も体験もない、単なる知識であるが、そのようなことを聞くことがある。

 

精神に”夢”がそれほど関係するのか?

 

たしかに”抑圧”した意識が”噴出”する場ではあるだろう。

 

だが、それがそれほど深いものか?

 

意識の”癖”を知るよすがとなる。

 

 

それはわかるのだが。。。

 

 

今まで、いわゆるインドの精神世界、というものに接する機会は少なかった。

 

知識として、ある。”ウパニシャド哲学””ブラフマー””アートマン”。

 

語感からして”神を人格者化しているのか”と思っていた。

 

各地にある”神”への考え方のいち地方版である、というような

中身を知るわけではない”高校の倫理社会や世界史的”知識しかなかった。

 

仏教が、インド精神史(ヒンズー教)から生まれたと聞けば、

 

たぶんそれは新約聖書に対する旧約聖書のようなものか、という感想であった。

 

つまり、いわゆる”地方宗教”の一種である、との認識であった。

 

兵庫県篠山発祥という”デカンショ節”。

 

僕は小学校時代に、宝塚出身の手塚治虫に深くはまった。

 

たしかそのなかで読んだもののように記憶するが、盆踊りの掛け声に

デカルト、カント、ショーペンハウエル”????

 

なんじゃそれ、である。

 

盆踊りと哲学者、まったく関連ないではないか???

 

明治、大正期の”青年”の、”外国への熱い想い”、そしてそれを認め、自分たちにはわからないが、すごい思想に取り組むまぶしい次代を切り開く先鋒者たち、という風になかば揶揄しつつ仰ぎ見る庶民がなぜか“盆踊り”の歌に取り入れてしまった頓珍漢、という風に、この”デカンショ節”を受け取っていた。

 

ああ、大正期は思想も輸入していたんだなあ。

 

そんな感想でいままで来た。

だが、そこにはそうした"哲”の人への、翻って”考える”ということへの畏敬の念がなかったか。

 

その同列の”被揶揄者”のいちパターンに”イン哲”があった。

 

ボサボサの頭でどてらを羽織り、眼はしょぼしょぼ、高邁な知識に絡み取られ、

世間から離脱してしまっているアパート暮らしの学生、のイメージか。

 

インド哲学。それがいわば西欧系、あるいはそれを受ける形で発展した日本の哲学界とは別の体系。

 

インドガンジス河に入り沐浴し、ヨーガにはまる米国西海岸のヒッピーに連なる文化。

 

これまた定型的に勝手にそう認識してきた。

 

そう、西欧哲学や禅、といった思想に、深く分け入ることがなかったのと同様、

インドの哲学とは、”ご縁がなかった”。

 

日本の、この日常、例えばTVを見たり、新聞を読んだり、さまざまな本を読んだりの生活のなかで、こうした思想へのアクセスするきっかけは、ほぼなかった、と言っていい。

 

きっかけは、ケン・ウィルバーの著作に接したことだろうか。

 

いわゆる“瞑想”、修行を行うとともに、ケン・ウィルバーはインドの精神世界に関する本を濫読したという。

 

ん?インドになにかあるのか??

 

魔術、といういわばいかがわしいとわれていた体系に、惹かれていた。

 

古くはたぶん”ディズニー”だ。そこには多くの魔法使いたちがいた。

 

そしてあまたの”魔法少女”たち。

 

ALICEでは直接の魔法ではないか、いわば”夢にうなされて”いるようなAnother Worldに遊ぶこととなる。

 

そこにあるいは含まれ、全くではないにしろ”重なる”精神体系として”錬金術”がある。

 

卑金属を金にする、という表面的な理解のもと、ただ”金色になる合金を作って喜ぶ前近代の技術”だろうとたかをくくっていた。

 

だが、ウィルバーを通じ、キリスト教やインドの哲学を取り入れたイギリス発の精神活動であった”神秘学協会”を通じ錬金術というものを見てみたとき、

 

そこで示す”黄金”とは金属のことではなく”精神”である、精神を”神と同化”することこそその目的である、ということを知った。

 

うーん、単なる”合金作成術”ではなかったのか。

 

もちろんそこから”科学”が生まれ枝分かれしてゆく。

 

しかし、池田さんはこの”科学教”、科学こそあたりまえの真実であり、魔術という”誤った、劣った、前近代的な”考え方を払拭するものであり、すべてがこれでわかる、という

(僕にとっての)日本の常識、これはこれでいいのか?その盲信状態こそ”宗教”のあやうさと同じものではないのか。

 

そうご指摘されてきたように、理解している。

 

そうした視点でみる、”インドで生まれた哲学”。

 

どういうものなのか。

 

 

非二元論、であった。全ては一である。全、空、時間も空間も、

あなたもわたしも、神も人も、魂もエゴも、意識もない。

なんの境界もない。

 

ひとの生とは、いわば映画のようなもの。

 

スクリーンにあたるものは、全てを受けいれ、全てを写し、そして写されたものに影響を受けるわけではない。

 

いつも、白い。

 

空には雲がある。雷鳴がある、天候がある。

 

太陽がある、月が、星が、宇宙が、ある。

 

だが、空は雲そのものではない。雲は流れ、変化し、留まらない。

 

空は、映画を映すスクリーンのように、ただ、ある。

 

空と、”私”には境界はない。グラデーションとしての、差はある。

 

だが、それだけだ。

 

温度に熱い、冷たいはあるが、そこにはグラデーションしかないのと同じく。

 

ソクラテスプラトンの”洞窟の比喩”、とは、このことを示しているのではないだろうか。

 

 

 

人間、あるいは現象に対峙したときのみ、単なる約束の結果として”熱い”、”冷たい”が生まれる。

 

同様に、“善い””悪い”はない。

 

それも、グラデーションだ。固定化した、なにかがあるわけではない。

 

その時代、歴史で、“善い”も”悪い”も変化する。

 

そのことは、そう説明されれば、すべての人は納得するだろうが、

 

 

だが説明されなければ、”そういうことになってしまっている。”

 

ドクサ。

 

夢、とは、覚醒したこの瞬間(時間はない中での永遠のなかでのことであるが)に

 

睡眠時のこととして示す語である。

 

だが睡眠していたのは、誰か。

 

夢を見ているときの”現実””覚醒後”とはなにか。

 

夢中、であれば、夢世界における”覚醒後”こそ”夢のように儚いもの”ではないのか。

 

儚い。人が見る、夢と書く。漢字とは、そのものが深い精神体系を示すものであるのだなあ、と思う瞬間である。

 

今、起きている。夢に対しては、まだ、どこか、すこし、整理しきれていない”自分”がいる。

 

いましばし、考えてゆきたいと、思う。

 

p.162 ラマナ・マハリシの教え

マハリシ なぜあなたは、世界のことだとか自己実現の後に起こることについて、想い悩むのか。まず自己を実現せよ。世界が知覚されようが知覚されまいが、そんなことは問題ではない。眠っている間は世界の知覚はないが、それによってあなたの探索に何か得るものがあるだろうか。反対に、今は世界を知覚しているが、それで何か失うものがあるだろうか。世界を知覚するかしないかということは、ジュニャーニにとってもアジュニャーニにとってもまったく重要な問題ではない。それは両方によって見られるが、見方が違うだけである。

”ラマナ・マハルシの教え”

山尾三省訳、めるくまーる社、1982年 

 

 

ラマナ・マハリシの教え

ラマナ・マハリシの教え