全てがグラデーションであり、
境界は本来無い、という気づきは、当たり前のようではあるが、言われて気づくことでもある。
時代による変化。進化か、退化か、というジャッジもまた、裏に”善悪”の発想がある。
楽園喪失、アダムとイヴが知恵の実を蛇(アダムの最初の妻である”人ではない”リリスが、という説もあったように思うが)にそそのかされ、神に追放されるという寓話、
あれはいったいどういう意味なのか、とずっとひっかかってきた。
そうか、これは”善悪”という観点を得たこと、私と他人、人と私との比較の観念を得て、そこから逃げられないことこそが”下界に住む”ということを暗示しているのかもしれない、と思った。
善悪はつらい。物を得れば、その喪失を同時に想う。時の概念を得れば、時の経過により”わがこの身体の衰え、衰退への変遷”を想う。
全ては過ぎ去る、永遠はこの世にない。
生老病死。生きることはつらいことだ。
ほとんどの私を含む皆さんの”心の根底に”ながれる気持ちはこんなところではないだろうか。
であれば、
手放す。持たない。捨てること。金銭でも、プライドでも、不安でも、なんでもかんでも。
ブッダが王族である身分を捨てたことに、”なんてもったいない””さすが悟る人は違う”などという感想をずっと持っていた。
そこに彼我の、差異を感じた。やはりわたしは残念な人間だ。
だがそれは、善悪と差異を、比較を捨てる比喩ではなかったか。
勿論ブッダは捨てたのだろう。その身分を実際に。
だが、そのことが示すこと。楽園追放で、人間が陥った”この世地獄”。
それが人がいて、自分がいる。時間と空間のなかに死すべき”私”がいる。
その思いのことだ。
で、そこに気づくこと、そのことがすなわち、
自らが”楽園”たること。
であるだろう。
だがしかし、この”楽園”の語、これも本来は違う。
楽も苦もない。
”無苦楽園”
とむしろ表現すべきでも、あるだろう。
泣きながら、局部を植物で隠して天使に追いやられる、
あの絵を描く画家は、果たしてそのことを、
感じていたのだろうか。
(そしてその画家は、たぶん私だ)