よく聴くがいい。
まず、思考について話そう。
思考とは、過去の知識の寄せ集めに他ならない。
思考は、決して現在である(今ここ)を知らない。
思考は(今ここ)を知ることができない。未来と過去について考えることはできる。
未来について考えていたことも過去だし、未来自体も過去の投影に過ぎない。
つまり、思考とは過去の知識、体験の塊である。
記憶と思考は直結している。
P.155 ヘルメス・J・シャンブ ”それ”は在る
会社生活の中で、辛いな、と思う体験があった。
ある事象が起こる。起こることが予想される。それは来てほしくない。
そんな思いを持って過ごした。
その時、助けとなる言葉を探し、出会った言葉。
それが”将(おく)らず、迎えず、応じて而して蔵(おさ)めず”
という語、荘子の言葉である。
言葉、漢字が意味から来ているということを実感する語、
軍隊をおくるもの、それが”将軍”。
忸怩たるネガティブな思いを、将来の自分に送る(将る)ことがないよう。
将来の自分は、(仮に過去の自分からの記憶として)ネガティブな思いが送られてきたとしても、
それを”迎える”ことはしない、と決心する。
応じる。事象は起こる。起こることが決まっている、とか決まっていない、という次元をこえて、
すべては起こるべくして起こる。
起きてはいけない、やなぜ起こるのか、はない。
起こる。ただ起こる。
そして、ただ、応じるのみ。応じることしかできない。応じてよい。応じる。応じる。
そして、”貯蔵”しない。貯蔵とは現在と見える”出来立ての過去”を、時間がない世界で偽りの時間があることにして”送る””置いておく”行為である。
それは誤りだ。蔵めない。蔵めない。
全てのことに、そうして接する。
いやな思いはある。避けられない。それは来る。
それを、どう“視る”のか。
そして“分かる”。そうであるとわかる。
自分や過去や、記憶や未来は、無い。
そう見える、とてもそう見える、そうとしか見えない、
そんなものはあるのだが、だがない。
ここはすごくわかりにくい。わかりにくくていいのだ。
誰が誰にわからせるのでもないから。
全。
”いやなこと”に接することは、あるいはこの言葉が導いたことなのかもしれない。
自ら辿り着いたのかもしれない。
”自ら”??
仮象の胡蝶の夢たる現実の手触りは、具体的でこの目、この手、この記憶、この肉体で”感じている”ので、有るとしか思えない。
夢と現実を比された池田さんの思いが今一つわからないこともあった。
だが、池田さんはもしかしてこのことをおっしゃっていたのだろうか。
起きれば忘れる”夢”、”死ねば”わすれる"今生”。
本質的には同じなのか。
個体と液体と気体と空間と、生きると生きてないと、私とあなたと、
レベルは違うが同じもののレベル差。
それが”どうも違っている”ように感じさせるがゆえの”偽りの差異”
差はない。境界はない。