執着の反対語はなんであろうか。
ドクサの強い語である。
語に接するだけでも、なんらかの”執着”を自我に感じるほどの
パワーのある語である。
今のわたしの気分では、たぶん”手放す”だ。
反対語、というものは、語が別々である、という意味だ。
非二元的に言えば、これはありえなく、手放すことと執着はまだら模様のある
グレードということにもなるだろうが、そこはまず置いて置いて。
手放すことは、むつかしいが、実施してしまうと、ほっとする。
これはたぶん、いわゆる”片付けの魔法”に通じるものだろう。
モノを持つ。経験を持つ。関係を持つ。
これを手放すときに、自我はこういう。
”もったいないよ””もう持てないかもしれないよ””一期一会だよ”
かつて、古本を買うときはいつもつぶやいたものだ。
”古本こそ一期一会”。
これはそうかもしれない。執着はとぎれない。
此の世の生。執着は”生”と密接に繋がる。
執着するもの=財産、記憶、経験、関係性 を得るために、自分は生きている、
とながらく思うように育ってきたように思う。
だから、執着は苦しい。
そして、愉しさと並び、”苦しさ”も実は自我にとって甘美な”生きるよすが”
であったりする。
自我にとって、苦しさはエネルギー源である。どちらかというと、愉しさよりも
強力で持続的で、より破壊的だ。
所持すると持つ、”喪失への不安”。
これも苦しさである。
これは仕事になる。そう、セキュリティだ。
ここは一丁目一番地(政治でこの言葉がつかわれると、大変に胡散臭く思っている(笑))だ、とみんなは思う。家族、自分の財産を暴漢から、泥棒から守らねば。
いや、その通りである。
だが、それは”不安から発生するビジネス”である。
愉しさと共に、生存欲(健康食品等)、性欲(アイドル、メディア)と共に
3大ビジネス供給源であろう。
真善美、に繋がっている感があるのがまた強力である。
そして、非二元、からすると、これまたよきこと、LET IT BEではあるのだが。
だから、”これはいけない”という思いは(持ってもいいが)要注意ではあるだろう。
これはいけない、という思いから、まずは手放すべきだ。
手放さなければならない、ではない。そう、ポロリと、しらぬまに、”滑り落とす”。
そんな感じが理想形だろうか。
吾妻ひでお氏が亡くなった。69歳。
上述の段でいうなら、”幼少期の記憶”。
甘美でかけがえのないものだと、思っている。
思えば、私の幼少期の頭のなかは、ほぼアニメ、マンガがそのままエンドレスで
流れている感じであった。
世界、が怖かったのだとも、思う。自分はこの場にふさわしくないのではないか。
そんな予感めいた感触が、あった。
これは、今も、心の根底にあるのだが。
頑張らないと、この”自分”は、この世にうまく適応できない予感がする。
そう感じていた。
その時の逃避は、絵本であり、本であり、マンガであり、アニメであった。
吾妻ひでお氏の作品にであったのは、幼少期を過ぎた頃であった。
ライダー怪人と怪獣の世界を経て(終わらず続いてますが)、次に来たのは島村ジョーとフランソワーズ。で、アトムとサファイア。
鬼太郎にドラえもん。トト子とおそ松。
そうした懐かしいマンガを漁って読んだ。これまた周りに同調者はほとんどなく。
あいもかわらず、世間一般からははずれている感いっぱいであった。
吾妻ひでおはそのころ出会っただろうか。時期的には永井豪と同時期。
まさに”2大トラウマ(いい意味で)”作家であっただろう。
吾妻さん、ありがとうございました。”自分の魂にとって、(他人にはどうおもわれようが)いい絵を描きたい”、という思いは、吾妻さんからもだいぶチアアップ頂いたように思います。
それこそ”甘美なる執着”であったのかも、
知れませんが。