池田晶子さんが、問い続けたこと。
例えば、最近よく引用させて頂く、ホーキンズ博士の本、"私"にはこうある。(p.338)
死とは、自己として同一視していたものをなくすことを意味しています。したがって、死にはさまざまな階層があると言えるでしょう。肉体の死に対する恐怖は最も基本的なものであり、記憶や感覚、自分の人生の物語をなくしてしまう恐怖がそれに続きます。さらに、感情体をなくすなどの恐怖があります。しかし、すべての死の土台になる本物の死は、ーそして自我が最も恐れるのはー自らを分離した自立的な存在として見る自我の喪失です。肉体を"わたし"とする感覚の喪失は死として体験されます。実際のところ、それが唯一起こりうる本当の死と言えるでしょう。
以上引用
自分とは何か。魂とは、私とは、と問い続け、自分とは"この肉体ではない"と感得されていた池田さんであるが、アンチエイジングや(肉体の補修を前提とした)クローン技術などを前にして、人間の意識として敢えて"私とはこの肉体である"と考えたらどうか、との逆提案をされたこともある。
逆張りで敢えて気が付く真実あり、というところだろうか。
ホーキンズ博士の本を読んで感じること、つまり"自我"にいかに私が/我々が自然に一体化しているか、と言うことだ。
生まれた時の基本specと言えるだろう。
そこからの離脱は、離脱しようとする意識自体が自我であるので、それは単に自己否定となる。
普通は"自我の死が死である"からである。
それは違うのかな、と少し感じたきっかけは、空と宇宙と無限を感じた時だ。
空には限界がない。境界は考えられない。
そうした無限に、日々、永遠に接している。
私は。
空が、青かったり、雲があったり、嵐があったり、雪が降ったりする。
何となく、空には限界があるように思ってきた。
しかし、どう考えても、空/宇宙の限界は無い。限界の向こうがあったらおかしい。
理解では、理解できない事がある。
そのように考えると、生物と非生物の境界もなくなった。固形と流体、気体の差異も無くなった。人間と動物の境界などあるわけがない。せいぜい状態の違い程度だ。
と言う感じになって来た。
良いと悪いも差では無く、グラデーションだ。
つまり
全ては一だ
という感じ。
いまはなんとなくその考えを、頭の中で転がしている
感じである。
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