池田晶子さんの文章がなぜにこれほど好きなのかというと、
例えばこの文章、
誰もが同じようにいい目に会って然る「べきだ」。でもそれは無理だ。才能と努力は、皆違うのだもの。最初にそれを認めない限り、やがて人は、才能や努力それ自体をも妬むようになるだろう。才能も努力もなしに。
官僚が接待を受ける=けしからん=羨ましい→自分も受けたいものだ。
そう思う性根は僕の中にある。あるし、そのことはあまり良いものでないし、気分もよくない。だが、ある。
そして、池田さんに指摘いただかないと、わからない場合がある。
ポリティカル・コレクトネス的にはそうだよな
などと思う自分もいる。しかしその思いの苗床は果たして真の”コレクトネス”なのか。
妬み、であるのではないか。
人生は、各人勝手に生きるものだし、またそうするよりほかにないものなのだが、だからこそ私は、絶対に変わらないもの、誰が考えても必ずやそうであるもの、を考えたくて考えていた精神たちが記し残したもの「哲学」、その清潔な普遍性を凡庸な人生論と一緒くたにさせたくないと思う。
論壇誌”正論”に連載を持たれた池田さんだが、どうにも”やはり”そぐわないと連載をやめることにされる。
同単行本には、なぜに池田さんが連載をやめようとなさったのかが記された”最終回予定原稿”なるものが掲載されている。
ああ、やはり掲載はされなかったのだなあ。
これを掲載する、できる度量の雑誌であれば、これは一読の価値があるかもしれないぞ。
1995年11月号で終わった連載には、別の原稿が掲載された。引用した文章はそこに含まれているものだ。
だいぶん前の出来事かもしれないが、これは今起こっていることだ。
池田さんが、”あ、わかっちゃった”ののち、後は静かに暮らせばよい、とお考えになったのち、”行って還って”こられたのは、”詮じ詰めればたんなるきれい好きなのだが、見ちゃいられないという愛のような義務でもある。”(同P.61)。
愛のような義務。
要は親切なのである。愛なのである。
行ってしまって還らないのが多くであるなか、”還って“来た人たちが“四聖”であると看破され、そのことを伝えるうちに、多くの若者が同じく気づく。”あ、わたしもしっています”。
故郷の巫女たる池田さんに、安堵してそう告げる。池田さんはひどく喜ぶ。そして鼓舞する。
”そのまま生きていけばいいのですが、できればなにかをこの世につたえたらどうですか”
宗教のなんたるかを看破した池田さんは、このあたりででたぶん危惧されたのだろう。あぶない、教祖に祭り上げられかねない、と。そしておっしゃる。決して教祖にならないことが私の矜持である、と。
同志として、同じ魂をもつものとして、同じ魂として、宣言する。巫女の祝詞である。
池田晶子さんの文章がなぜにこれほど好きなのか、という自分への提題であった。
このあたりが、たぶん、、その理由であると、
思っている。