上野の東京都美術館で開催中の第87回日本版画協会版画展に行った。
美術館に行くときは基本やはり企画展が中心で、有名画家のメイン絵画を前に、
ああ、これがあの有名な。。
と仰ぎ見るのも嫌いではない。
私は見るものは主にマンガから来ているので、抽象や色彩の面白さもいいが、やはり具象に惹かれる。
これは個々の人間の癖(へき)や由来から来るものであろうから、
”好きなものは好き”でいいのだろうと思っている。
こうした気持ちになるのにはなかなか時間がかかった。
よく聞くのは、”美術がわかる、わからない”だ。
あの言葉は好きではない。
わからなければならないものなのか?美は??
伝わるものがあり、それが好きなのかどうかで判断する。
好きなものを見て感じる。別にお勉強ではない。
ひとり造る側に居るときは、特にその思いであった。
だが、やはりというか、当たり前といおうか、作る側の皆さんの末席に加えていただくと、
そんなことはあまり気にならなくなった。
みなさん、好きなものを作っている。好きなものを、見ている。
人の目を気にして作られたものは、なんらかの腐臭を帯びる。
腐臭、が言い過ぎであれば、”媚び”だろうか。
これを感じると、萎える。
生活の為、超絶技法で描かれ量産されたすばらしい風景画。
いや、デコレーションにはいいのだろう。
好きな人が購入すればいい。
だがこれは、見栄の為壁の本棚に収められた世界名作全集と同じである。
そして、作っている人も多分、あまりうれしくはないだろう。
ただ、日々のよすがであれば、それはよい。
だが、伝わって、くる。
版画展は公募展であるので、多数の描き手を絵の後ろに感じる。
美、は根源的には唯一の存在であろうが、それが描き手を通じて此の世に瞬間現れる。
そこに描き手の気持ちや癖や思いやなにやらが結果的にフレーバーとなってふりかけられ、
それが個々の絵となって現出する。
描き手は、美を現出させるための、通路である。
それはいわば、池田晶子さんが真実を告げる通路として、”哲学の巫女”を名乗られたのと同じ構図だ。
”美の祭司”みたいなものだろうか。
その根底には”美”がある。
美、とはただ美しい、だけではないだろう。
根源的なもの。普遍に在るもの。永遠に連なるもの。
”真善美”の一角を担うもの。
美醜、はない。その差はない。
美しさと醜さの差異はない。境界はない。
そう思えば、全ての作品はとても面白い。
そのなかを”流し”て、
多くの作品を横切りながら、
みずからの触覚に触れてくるものの前で
立ち止まる。
それは永遠である美に、永遠に接している時間でもある。