を読んでいる。
池田晶子著、94年に雑誌”正論”へ記載された文章を嚆矢とする。
本は読む時期、読む”自分”によって”読め方”が違うという。一読驚異、”ああ、池田さんはあのことをこうおっしゃっていたのか!!”
完全にわかってらっしゃる。そしてそのことを”自分=私=某”がこの”地球=今生”でどのように考えたのか、そのずれと掛け違いを、楽しんで報告されている。
そういう本だったのだなあ。
最近はいわゆるケン・ウィルバーや禅、エックハルト・トール(トーレ)などの本を読んでいるのだが、
池田さん、おんなじことをおっしゃっている。それもわかりやすい”日本語”で。
そして親切だ。魂が優しい。
池田さんのことを対談集”君自身に還れ”で大峯顯氏が評して曰く、”観世音菩薩だ”。
その通りだと、思う。
魂と脳味噌はちがう。
これはいわゆる、自分の意識と自分は違う、とケン・ウィルバーがいうのと同じだ。
脳味噌は記憶を抱き、抱き続けられない=痴呆となる。
魂である、自分は、わかっている。だが、記憶がないと、記憶がないこともたぶん、わかる。だが、皆さんに、孫に、係累に、すでにだれだかわからない、”眼の前のひと”に、
そうであることをいうのははばかられる。
優しい、魂は、たぶんそう”考える=感じる”。
だから、虫が、犬が、草が、おなじように”わかっている”だろうことも感じる。
ここ、だいぶ飛躍しますが。
えー、池田さん、こうおっしゃってます。
かく言う私にもなんにもない。
もとより、自分の過去とか過去の出来事とかが、自分というものを規定しているとは思っていない。(中略)いかなる奇態な経験を山と経ようと、それらを経験した自分はずっとこの自分であったという、そのことの「なぜ」の方のみいつも私は見つめているので、出来事の方なんか忽ち忘れてしまうのである。「昔の恋人なんか覚えていない」。いっぱい居たような気もするんだけど。
たんに情が薄いだけなのかしら。
それもなくはないような気がするが、直線的時系列を生きている自分と、それらの現象を「思い出す」自分との間には、実は根源的な断絶があるのである。いや、断絶することによってやはり連続しているのである。道元禅師がそのことを、
「前後ありといえども前後截断せり」
と喝破したのだ。すなわち、現象の側を在ると思うか、現象を現象と見ている自分の側を在ると思うか。
現象を現象と見ることの、むつかしさを、思う。