閑さや 岩に染み入る 蝉の声
閑さを、”しずかさ”と読むか、”しずけさ”と読むかということがあるようだが
ここは私の趣味で”しずけさ”とする。まあ、しずかさと読んでもいいだろう。
我が家の前は神社である。中古住宅を10年ほど前に買って移り住んだ。
神社がある、ということ、今は気にいっている。
借景、となる。小さな村社であるが、境内には樹が何本かある。
朝、窓を開けて座る。樹が、見える
音は、わたしだ。鳥のさえずり。朝はさえずるが、すこし朝も下ると、今であれば虫の声となる。今、蝉も鳴きだした。
声がある。声を聞く私はあるか。鳴く、蝉はあるか。岩は、あるか。
無い。
閑さは、あるか。これは、”美”があるか、と同じ問いだ。
無い。
美は無い。閑さは、無い。
では、無は、あるか。
無は、無いという状態で、ある。
無いという、状態なので、あるが、無い。
要するに、無いのである。
では、この世に、この瞬間に、今に、何があるのか。
聞く、私の意識は、無い。岩も、閑けさも、無い。
声がある。蝉の、声だ。私は、それだ。世界は、それだ。
蝉の、声を、聴いている私の意識を、”目撃している”意識ではない、これ。
これは、声であり、今の瞬間全てだ。
これが、”一”。 全である。 此の世にあまねく、あるもの。偏在するもの。
今。
では芭蕉が、立石寺で聞いた蝉の声と、いま、私が聞いている虫の声。
これはどうか。聞いている私は、無い。芭蕉は、わたしだ。過去はない。
つまり上の解。”違う”がない、”同じ”だ。違うがない同じなので、在るがない無と同じ。
ああ、そこにある同じにも違いがない。
すこしごちゃごちゃしてきた。
それでいい。”Let it be".
大いなる、let it be.
これはいわゆる、”なべて世は こともなし” と同じ意味だろう。
閑さや 空に染み入る 虫の声
今、そうなっている。
今。