夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

自分とは何か。

茅野に向かう中央線特急で、ケン・ウィルバー「無境界」を読み終えた。

 

気に入った箇所を抜き書くことにしているので、フニャッとした座席と横揺れの所為で久しぶりに電車に酔う体験をした。

 

セラピー、というと、精神に異常を来して駆け込む、というか、すくなくとも癒されたい(セラピーの訳は”癒し”だと思っている/いたので)という思い(欠落あるいは不全感)があって初めて接するものだと思っていたが、もしかして魂といわれる部分を考えたいなあという思いがあれば、その世界や手法に接するという態度もあるのかもしれない。

 

例えば海外では気楽に精神科医にアクセスするが日本では相当おかしく?ならないといかない、という言い方がある。

 

これは海外の皆さんが精神的に大変だというよりも、精神科やセラピー、あるいはスピリチュアルといわれるものに対する姿勢の違い、皆さんが基本的にもっていて、”ああ、あなたもそうですよね”があるので、別に精神科に行ってもいいし、隠すこともない、ということがある気がする。

 

日々を過ごしていると、魂について考える、というとなにかタブーを犯すことにつながるようなイメージがある。”宗教にはまる”といったニュアンスに近いような。

 

これは日本というこの国に住んでいると自然に感じるドクサ的同調圧力の所為なのかもしれない。

 

そうした勝手に感じている圧力に抗い、”自分”、というものについて感じ考えることにもっと自由であってもいいのかもしれない、とこの本を読んで思った。

 

そう、自分。

 

言葉というものは、当たり前に漢字によって表されるが、その”言葉”にふくまれる考え方、成り立ち、哲学のようなものが、構成する個々の漢字を通して感じられることがある。このあたり、白川静氏が極められていると思うのだが、例えばこの”自分”ということば。

 

たとえば”統一体(ユニテ)”、

 

”哲学的精神は常に、統一体(ユニテ)を目指すのではなく、統一性から引き返してくるものです”(池田晶子 「メタフィジカル・パンチ」)

 

と池田さんがおっしゃるときの”統一体”、

 

これは様々な別の呼び方があると思われますが、取り敢えずはこのユニテ、全にして一、である。

 

そして”魂”と呼びたいこの自分の”コレ”、これはなんとなくユニテのなかのたまたまの一部分(不滅にして永遠のもの)がこれもまたたまたまのこの私の身体というきっかけに、分離しない(=無境界=No Boundary)形で存在している、という感じがただいまはしています。

 

自分、と呼ばれる、自らに分け与えられた”部分”。

 

これは基本、全体の中の一部であるよ。

 

という感じ。

 

 

この感じが漢字として”自分”として示され、そして自分を”自分”として表現することに皆さん納得感心してみずからもその語を使ってゆき、

 

広まり、定着し、

 

そして当たり前の言葉として、その意味は実感されないままただの言葉として利用されだす(明治期に西洋から知識を輸入した人々は、その意味を示す漢字の当てはめ=創作に苦労をしたであろうが、その当てはめのこと。例えば”哲学”の語しかり)。

 

白川氏は、語の成り立ち当時は当たり前のこととしてわかって使われていたのこの漢字たちが、いまはその理由・哲学忘れ去られ、顧みられず、ただの”道具=手段”とされていることを憂い、まさに”啓蒙”としてその成り立ちに立ち返って思索を深められていたのだと思う。

 

そして、この”魂としての私”は、全にして一(の一部)である、というある意味〝不遜”な理解。

 

これは”私が仏である””私が神である”と言っているのに等しい。

 

グノーシスは、自分の中に神(の一部)がある、といった。人間は神の子、つまり神自身ではないとする(これは私の勝手な理解かもですが)従前のキリスト教にとって、より魅力的、というか比較にもならない位”ラッキーな”事実を言っている。

 

なので、異端として”殲滅”した。

 

そうしないと、自分たちの宗教が成り立たない、と思ったのだろうと理解している。このことは以前からこのブログで言っているような気もするが(忘れてしまいました)、

 

禅も同じことを言っている。

 

 億劫来の自己は

 本来存在せず

 死して他へ行かず

 すべて無一物 

 (ケン・ウィルバー 「無境界」P.269)

 

これも前に書いた気がするが(再び忘却)禅のこの思想に感激し、日本に来て僧となった海外の青年が、後でグノーシスの思想を知り、わざわざ禅でなくてもよかった、と残念がっている、という文をどこかで読んだとき、

 

ああ、日本で僧衣着て剃髪して日本人に紛れて過ごすのが大変なのだろうなあ、と同情するとともに、本来無一物であるのであればそのような本音実感はないはずでもあるので、”まあいろいろ大変だなあ”というよくわからない感想を持ったことをいまも覚えているが、

 

そのグノーシス思想であり、禅思想である。

 

だがたぶん、仏陀も、老子も、その他人々に”これは本物だ”と感じさせ(残念ながら)”宗教”化してしまったその出発点の創始者の思い、

 

これはたぶんほとんど共通だったのだろう。もちろんキリストも。

 

だから、グノーシスの殲滅は、すこぶる皮肉なことのようにも思う。

 

ちょっと、収拾つかなくなってきましたので、今日はこの辺で。

 

 

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