夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

自尊心とは。

卑近な例から申し上げると、

 

例えば車の運転時。

 

 

同乗者から道の間違いや運転技術の不備を指摘されると、

大変不快になる。

 

 

池田晶子さんは巨大な愛犬の運搬のため、やむなくハンドルをにぎられ、

いろいろなところにぶつけたり、ぶつけたり、ぶつけたりと(言い過ぎか?)

 

大変苦労されたことを著書で告白されている。

 

ワープロに躓き、スーパーでは代金を支払おうとしてこの”貨幣”とよばれる金属はいったいなにか、という思いによぎられ、

 

そんな池田さんが愛犬のためならこの動く金属の塊はなにか、という問いをすっとばされてがしりとハンドルを握られたであろうすがたには、”愛”を感じずにはいられないわけであるが、

 

いまは同じ車でも、不肖ワタクシの運転技術での指摘受けが不快な話であった。

 

 

ちと、当たり前だが、やはり覚悟が全く違う話である。

 

 

池田さんには、ひとと自分を比べる、という視点が、本質的に抜けている。

 

これは”抜いた”のではなく、そういう視点をそもそも持てない、本質的に考えればなぜもつのか、というところであろうことは、その日々のお姿から伝わる。

 

本質から考えて、そういう視点は不要であり、逆に持ちたくても(持ちたくはないが、持ってみる気持ちを体験する意味で)持てない、というレベルである。

 

翻って、ワタクシ。

 

めちゃ持っている。残念な形の、”自尊心”。

 

これ、”尊”の字にだまされて、基本持ってはいけない、あるいは”劣化”した自尊心があるので気を付けよう、ということが、わかっていなかったようだ。

 

不幸せは自分と人との比較からくる、というか、そこからしかこない。

 

自らが持っているものに満足することが、幸せだ。欲しい、持っていない、は地獄の心境。

 

まあ、それはなんとなくわかる。

 

となりの芝生は青い。

 

それもなんとなくわかる。

 

だが、自らを”尊”すること。これいけないの??

 

いいような、気がしていた。

 

しかしこの自尊心、ちょっと考えれば、そこに”地獄への入口”である心理、”人と比べて”自分は、というものが、ある。

 

というか、そのものだ。

 

 

ああ、これはいかん。

 

だから、車の運転技術不足への指摘を、素直に受けられないのか。

 

同乗者は運転者の人格を糾弾していない、あるいはしていても全部がそれではない。

 

罪を憎んで、人を憎まず。

他人に注意するときは、2人で部屋でやりましょう。

 

これらの人生の注意事項と似ている。なんとなく、人格否定されている気が、

 

するんだなあ。。。。

 

 

自尊心の否定、といえば問題がぼやけるが、

そんな立派なものではない。

 

指摘しているあなたの人格が、ワタシより立派ですよ、という風に言っている気がするのである。

 

人格は大袈裟か。だが、わたしの運転技術は、道路等の空間把握は、あなたよりすぐれてますよ。

 

そう聞こえるメッセージが、たぶん道を間違えたり、左折で後輪を縁石とこすったり、高速道路で降り口を間違えたり、

 

そんなこんなで、自分の運転技術への残念な気持ちが、溢れかえっている無防備なワタクシの心に、

 

そういう意味ではない指摘を“糾弾”と受け取り、

 

めちゃストレートにぐさり、と突き刺さるのである。

 

 

ああ、もう運転したくない。

 

そうなりますわな。

 

 

でもでも、

 

そういう心理、すこし残念である。

 

自尊心って、そんなもの?なんだかレベルが低いなあ?

 

もうちょっと、ちゃんとしたものでは???

 

そんな気もする。

 

ちょっと、ヒントを得た。

 

円覚寺十代管長の朝比奈宗源師の現代語訳版”臨済録”を高校生の時に読んだ、

駒沢大学教授小川隆氏はこう語る。

 

”その迫力というのは、徹底的な主体性からくるものだったと思います。

人は大抵自尊心というものを持っていますが、自尊心と言っているものが、実は往々空虚で、基準が他人なんです。他人と比べて自分の方が上だということを自尊心だと思い込んでいるわけですが、それは自尊心でもなんでもない。

しかし臨済は、他人ではなく自分自身を信じるということを、繰り返し強烈に理屈抜きで言っていますね。それがただの思い上がりではないことが読んでいて分かる。自分を信じるということをそこまで確固と言い切るところに新鮮な感動を覚えたのです。”

(P.67 致知 2019年6月号)

 

ああ、ここに書いてあるぞ。自尊心とは、他人より自分が上だと思うことではない。それはただの砂上に構築した”優越感”だ。事象に限界はない。上だと思えば心根は下。

 

そうではなくて、自尊心とは文字通り、自らを信じぬくこと。どこまでも信じ、信じ切ること。どこまでも、基準は自分であること。

 

池田さんは、ワープロができなかったり、愛犬運搬で車をぶつけられたりすることに対し、自らを卑下されることは全くなかった。事象として報告されたのである。

 

その報告を受け、ワープロ(今はパソコンか)を喜々として打ち、他人より良い車に乗ることでの地獄の優越感に浸るワタクシたちが、なんだかオカシイのではないですか、という事実が立ち上ってきたものである。

 

そうか、ワタクシも現在の全能力で、縁石をこすろうが、高速道路でおりくちがわからなかろうが、自分を信頼して運転するど!!!!

 

。。。あれ?すこしは技術向上努力が必要な気もするが。。。

 

 

禅では、仏に会えば、仏を殺せ、という。神は死んだ、ともいう。

ここは不肖ワタクシ、池田さんにお会いしても、池田さんを殺さねばならない。

 

仏を殺すのと同じ意味で、池田さんを殺しますよ。

 

もしそうお伝えすれば、自らが教祖になってはおしまいだ、とおっしゃっていた(同じ意味ですよね)池田さんはたぶん、

 

莞爾として微笑まれる

 

 

そんな気がしている。

 

時制はおかしいが、

 

もしかして、

 

 

莞爾として微笑まれた

 

かもしれない。