おこがましくも池田さん著書と同じタイトルを付けさせて頂いたが、
池田さんの言葉を抜き書きしている日記のようなものの過去抜き書きを読んでいたところ、
こんな断片があった。
人が本当に自分のものと言えるもの
「魂」「身体」「時間」
ちょっと引用書記載がなく、申し訳ないのだが、小林秀雄の有名な言葉、
歴史とは、無数の私がどこかへ飛び去った形骸である
と共に書き写しているので、たぶん「事象そのものへ!」からの引用と推察するが(別途確認します)、
自分のものといえども、この3項、時間とともに変化のあるものでもあるようだ。
人がただ、金のために生をあたら無駄使いする、ことを実は僕自身はある程度仕方のないことだと思っている。
僕が小学生の時、母は言った。
先生なんかなったらアカンで。とにかく給料が安い。
うーん、そうなのか。
深く魂に(笑)、刻まれた。
実感としか、感じなかった。これがお告げか、とも思った。
子供のときから運動が出来ず、カナヅチで色が白く、野球はからきし、休みは家でマンガか本。
TVも、マンガか相撲。
こんな幼児だったので、人との交わりは基本苦手。
まあ、センセイとは生徒になにかを教えるわけで、教えるほど習熟することがあまりありそうもなかったので、
まあ、そんなもんかな、
と思っていた。
父親は技術系のサラリーマンだったが、自分では算数は大嫌いで、とにかく学校では好きな科目は図画工作。勉強なしでできる国語も楽だった。
たぶん、あのひとことがなかったら、美大で教職でも取って(取れるのか?)、中学校位の美術教師を目指していたかもしれない。
算数→数学の出来なさは、とにかく頭がそういうふうに出来ている、ということばしか浮かんでこなかった。
無理を承知で、数学は答えを暗記。とにかくわからないけれどなんでもいいから書きまくって部分点を狙う。
数学や物理では、とにかく頭脳がホワイトアウト。思考停止する脳の姿を描ける位だ。
いやあ、いまだに思い出しても、辛いものがある。
祖父は大学で仏語を教えていた。フツウに考えると、なんだかかっこいい職業のようだが、その娘である母がいうのである。
センセイはアカン。
そうか、大学でもアカンのか。
そうして、サラリーマンになった。
とにかく食べられる仕事せなアカン。
母のことばは、重く、正しかった。
人生の賭けとして、それでも大学は某早稲田大学の某イチブンを受けた。第一志望。
ここなら有名大学だし、文学部でも食べられるような気がする。小説家コースもある。ダメでも出版社にでも入れるような気がする。
落ちた。
ここをおちたら、きっぱりあきらめよう、食べるために別の大学に行こう。算数できないから、法学部しかないわな。
あきらめて、法学部に行った。そしていま、サラリーマン。
なんとか、食べている。
ソクラテスは生きるために食べた。食べるために生きるのはだめ。まず食べる。そして生きる。
その順番を教えてもらった母には、感謝している。
しかし、自分のものである「身体」と「時間」は、経年とともにあきらかに可能性としての残りは減ってゆく。
そして、魂。
魂を世話、せねばならない。
時間と身体は、そのためにあるような気がする。
時間を使って、見る、感じる、考える、の身体の各能力を使って、
魂を、ブラッシュアップ、せねばならない。
出来て、いるのか。
こころもとない。
でも、私とは、
自分のものである「時間」と「身体」を使って、
「魂」の世話をすること。
これ、似ているようだが、世話、と自分探し、
違いますから気を付けるように、
そんなことも池田さんはおっしゃっているのだが。