夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

幸せになる勇気。

幸せになる勇気――自己啓発の源流「アドラー」の教えII

幸せになる勇気――自己啓発の源流「アドラー」の教えII

を読んだ。

気になった部分を抜き書きしてみる。


”「教師は子供たちの心を形づくり、人類の未来は教師の手に委ねられている」。” P.292

池田さんは、ふがいない教育現場に業を煮やし、好きでもなく興味もない政治の世界で、敢えて文部大臣(当時)になる、と檄を飛ばされた。

そんなことも思い出した。



”政治革命ではない、教育革命による人類の救済” P.291

教育は自己を教育するしかない、とどこかで読んだが、ここでアドラーがいう教育もまた、結局は”変えようという意思をもって自身を教育する”という意味であろう。

この本は、読んでいて気持ちがよかった。

たぶん多くの人がそう思うのだろう。

そして多くの人が読むことで、人々の関係が良くなる方向に行くように感じた。組織も、よくなるように、感じた。

本、というしくみが持つ力。それは、教育とも近いかもしれない。



"「アドラー心理学は、ギリシア哲学と同一線上にある思想なのです」" P.289

哲学、と心理学、の差異がよくわからない。ユングも日本と欧州での評価は違う、と聞く。

それがどのように呼ばれようと、僕個人には関係がない。その思想を読んで、どう感じるか。それだけだ。

そういう意味では、アドラーには惹かれるものがある。ユングにも、だ。そしてもちろん池田晶子さんにも。




"われわれは未来が見えないからこそ、運命の主人になれるのです。" P.280

ああ、この2日ほどの雨を経て、晴れてきた。

なんとなく、外にでるのがおっくうだったが、いま陽の光を浴びると、気持ちが浮き立ってくる。

この本を読んでも、自らの生をひきうけることが、結局人がこの生のなかですべきことであるように思った。

魂の世話。

これはとことん自分自身に向き合うことを指すことばだ。


"哲人 ある人から「人間が変わるのに、タイムリミットはあるか?」と質問を受けたアドラーは、「たしかにタイムリミットはある」と答えました。そしていたずらっぽく微笑んで、こう付け加えたのです。「寿命を迎える、その前日までだ」。"
P.278-279

"(前略)現実としてわれわれは、別れるために出会うのです。
(中略)すべての出会いとすべての対人関係において、ただひたすら「最良の別れ」に向けた不断の努力を傾ける。それだけです。"
P.277

→死を想う。生きるとはそういうことかもしれない。死は別れなのか。そうでもあり、そうでもないかもしれない。そこでの思想の伴走者としての”宗教”の役割もあるだろう。

相手をそのままの姿で、なにも期待せずにただ愛する。それが”最良の別れ”につながってゆく。

人生すべてが一つの自己の作品である。

。。。そんなことを想った。



"彼は自らの心理学を「すべての人の心理学」と位置づけ、アカデミズムの世界から遠く離れた、人々のコモンセンスとして生き続けることを希望しました。"
P.276

"「世界はシンプルであり、人生もまた同じである。」(中略)
「シンプルであり続けることはむずかしい」(中略)
ほんとうに試されるのは、歩み続けることの勇気なのです。” P.274-275

生き方、という。生き方の基本原理のようなものを、僕は池田さんに頂いた気がしている。迷ったら、先を、はるけき先を走る池田さんのつぶやきを参照しよう、という風な。

だが、日々の暮らし、夜になれば心は雑音に溢れる。

朝はすこし落ち着くが。だが、シンプルに行くことは、むつかしい。軌道修正しつつ、戻しつつ、歩み続けるしかない。


”われわれは他者を愛することによってのみ、自己中心性から解放されます。他者を愛することによってのみ、自立を成しえます。そして他者を愛することによってのみ、共同体感覚にたどりつくのです。” P.272

”たとえば、相手の好意をなんとなく察知した瞬間、その人のことが気になり、やがて好きになってゆく。こういうことはよくありますね?
青年 ええ、あります。ほとんどの恋愛はそうだといっても過言ではないほどです。” P.258
”愛とは信念の行為であり、わずかな信念しか持っていない人は、わずかにしか愛することができない」”P.271

恋愛の始まりに、自分が傷つきたくない、という心理が働いていることは、よくわかる。そこに担保がある。

それをわかったうえで愛、という行為を考えることは、新しい。

”哲人 ・・・・・・あなたの願いは「幸せになりたい」ではなく、もっと安直な「楽になりたい」だったのではありませんか?” P.270

愛、という名で、楽になりたい、という想いを隠すことは、確かにある。

愛には、責任がり、共同作業である、ということには、頷かされる。たしかに、そうだ。