夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

神。

絶対精神が絶対的に存在するには、絶対無を契機として絶対我が口走る刹那滅的冗談である。
 西田幾太郎

神からの流出という考えがある。すなわち神の一部。

いつから神には人格が必要という風に思ったのだろうか。

今朝、晴天の朝日を見てそう思った。

これを”神”として拝み喜ぶ”原始人”を果たして嗤うことができるのだろうか。深く体感し、こころから額づくことの甘美な陶酔。

これこそが神に対峙するときの作法ではないのか。

そんな風に思った。

”トマスがアリストテレスの「能動理性」の説を受容するに際して慎重だったのは、不死なのは理性もしくは知性であってそこには個はないとするその説を認めることで、個人の魂の不死や最後の審判などの教義が揺らぐことを警戒したからなのだが、エックハルトのような人には、そんな小細工は通用しない。この教説を見る限り、眼中にもない。自身、神の恩恵について、「神から与えられるよりも、無しで済ますということによって、一層本来的に、即ち神の自体を受容する」と言っているのであれば、神の自体さえも、「無しで済ます」と言っても、もう同じことだ。さて、これは、どうひいき目に見てももはや信仰ではない。”
P.185 池田晶子 考える人 中央公論社版より(注1)

”では、そうして丸く納まっていたはずの一者が、どんなふうに生成を始めたかというのが、あの有名な流出論である。万物を内蔵していた一者が、あたかも太陽が光を発するように自ら溢れだしたもので、それに従って世界は自ずから順位をもつ。一者は知性を生み、その魂は最下位の質料すなわち肉体と結合して、それがこんなふうな地上の私たちの生であるというわけだ。”
P.181 同上

クリスマスが近い。考えるとキリストの生誕を祝うものなのだが、一つの契機となっている。その縛りのなさは、悪くない。

契機があれば、その成り立ちは別にしてその発生を寿ぐ。本来の目的を考えよ、と説教する勢力はない。親もそうは思はない。ちょっと安易な気はするが。

ハロウィンもそうだ。公認のコスプレイベントと化している。商機が入るとこうなる。定着すれば、その商機に群がるビジネスマンが、より儲かるイベントへと育ててゆく。そもそも根源に立ち返ろうとする精神がどこかにあるわけではない。

子供のころはサンタは神かと思っていた。白髪の西洋老人。これが神のイメージだ。細身のはずだがまあデフォルメか。そう思っていたものだ。

たぶん、だが子供のころにこうしたポップな神の在り方に接しつつ、西洋ではおとなになりさまざまな神の在り方を考える機会を持つのだろう。先ほど池田さんが引かれた流出説もそうだ。そこに教会のシステム維持のための思いが”検閲”に入り、それを外れると”異端”となり火炙りだ(注2)。ここにもシステム維持の思惑がある。

そんなものから自由になりたい。中世の神学者ならそう思うこともあっただろう。はい、ここにあります。この日本、そうしたものから自由になってます。どんどん商業化もしています。

茶化したが、考えてみるとこの”宗教フリー”な状況は精神面ではストレスがないのかもしれない。楽園かどうかはわからないが、ストレスは、少ない。

なにがいいか、ではないのだろう。やはり、どう考えるか、なのだろう。

”それ故に私は、神が私を神から脱却せしめ給うように神に願う。なぜならば、私の本質的な存在は、われわれが被造物の原因として把えるような神を超えているからである。存在を超え一切の区別を超えているところの神のその存在のうちに私自身在ったのである。そこで私は私自身を認識し、私であるこの人間を作った。それ故に、私の時間的な生成からではなく私の永遠なる存在からすれば、私が私自身の原因なのである。(中略)私の誕生において万物が生まれたのであり、私は自分自身と万物との原因であった。もし私が存在しなかったならば、「神」も存在しなかったであろう。神が「神」である原因は私なのである。もし私が無かったならば、神は「神」でなかったであろう。こういうことを知らなければならないというわけではないが。(「説教})”
P.183 同上
池田さんが引用された元は 「人類の知的遺産 マイスター・エックハルト上田閑照訳 講談社

この13世紀ドイツの神学者エックハルトの言葉を見て、池田さんは驚いている。こんな無鉄砲な人がいたなんて。これは臨在禅にそっくりだ。

どうも禅とこうした流出論、グノーシス主義は親和性があるようだ。うろ覚えだがこの思想を知った西洋人が臨在僧になったが、グノーシスを知っていたら禅僧にはならなかったかも、というコメントを出していたのをどこかで見た。日本の宗教的しがらみがしんどいんだろうなあ、とちょっと気の毒に思った。

宗教、というところに、近いところにいるのは、実は池田さんのような詩心を持った人や、詩人なのかもしれない。

”なにごとも永くは続かないのだ
だらけたり緊張したりが生物の呼吸なのだから”

”そのあたりまでは来ていながら
鳥や獣や魚のもはるかに劣る暮らしぶり
彼らの無心
彼らの静謐にも及ばず
誰が言い始めたか ひとを知的生物と”

茨木のり子 苦い味 より抜粋 P.191 茨木のり子詩集 岩波文庫

こんな詩を読んでいると、そう思う。


池田さん(の著作)に推奨されてエックハルトの本を注文した。

エックハルト説教集 (岩波文庫)

エックハルト説教集 (岩波文庫)

もうすこし彼のことばを読んでみたいと思う。



(注)考える人 池田晶子 引用はハードカバー版です。
文庫版がちょっと見当たらなかったので。。

(注2)エックハルト自身は、異端者とはなっていないようです。