夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

菊と刀。

日本人の宗教感、ということが、話題になることがある。

日本に於いては、基本宗教はややこしくない。
ややこしくないということは、それほど重要ではない、と一般に思われているからかもしれない。

海外から来ると、日本では宗教の話がややこしくないと感じるという。相手がどのような宗教感を持っているか、ということは、日常生活ではほとんど気にならない、というか関係してこない。

ハロウィン(これはワルプルギスから来ているのだったか)を楽しみ、クリスマスでは父親はサンタに変化し(サンタは聖人だが、まあイメージとしては空飛ぶトナカイ馬車?の御者か)、数日後は初詣。これが神社に参っているというイメージは、もちろん拝むが強くはないだろう。

仏教的な極楽地獄の感覚は、われわれに根付いているのかどうか。ユダヤ教では”いまだ犯していない罪”への罪悪感が宗教感の基本であると聞く。

また、一般的なキリスト教の理解、”天国へ行くためにこの世で善行を積む”という認識も、もちろん地獄でこの世の行状が沙汰される、という理解はあるものの、実感としてそこまで徹底している日常ではないだろう。

キリスト教では復活できなくなるので、土葬を行う。死せば肉体を焼き骨となるこの日ノ本では、現世での復活は基本イメージされていない。

もちろん輪廻思想はある。個人的にも最近とみに思うのは、たとえばあの猫あの犬。声帯が人間と違い、脳幹も人間とは違うながら、間違いなく質としては同じ魂を持つものだ。で、あれば、あの虫は。あの鳥は。

いや、同じだなあ、と思いはする。では、魂は、死せばそののち大きな”魂界”に還り、そして機会を得て再び肉体(それはあのコクゾウムシの中かもしれない)に戻るのであろうか。それも、もしかすると、と思う。

この思想、総てのものに魂あり、とする、総てのものが成仏するという思想、それと似てきているのであろうか。

八百万の神、という。総ての魔女も、すべての聖人も、すべからく神である。悪人はない。善人はない。すべては”魂体”である。

なんとはなく、そんな感じもする。

そんな風に思っている(いや、皆さんがどう思っているのかはもちろんわからないが)世界にもしキリスト者が、イスラム者が入り込めば、これはこだわっていないなあ、となるだろう。

基本的に宗教的強制感がない世界は、個人的には悪くはないと、思っている。

ルース・ベネディクトの”菊と刀”を読んでみる。

”真の罪の文化が内面的な罪の自覚にもとづいて善行を行うのに対して、真の恥の文化は外面的強制力にもとづいて善行を行う。恥は他人の批評に対する反応である”
(P.258 現代教養文庫版)

罪の文化=西洋文明、とすれば、罪を感じる相手は神であり、神を前にした自らの良心、カントの言う”道徳”であるだろう。反して恥を感じるのは、目の前の、世間のなかの他人ではある。

だがしかし、他人はまた、成仏するものだ。仏になるもの、いわば”菩薩”だ。

そう思うのであれば、それはまた同じく”存在の不可思議”の前に同じく立ち尽くすものである、と、いえるのかもしれない。


根っこは、意外と、近いのかもしれない。



菊と刀―日本文化の型 (現代教養文庫 A 501)

菊と刀―日本文化の型 (現代教養文庫 A 501)