実は本は文庫本も単行本も持っているのだが、きちんと読んでいなかった。
読んでも、なかなか進まなかった。
しかしこの5月に鈴屋、つまり本居宣長の住まいへゆき、これも買ってあったが読めていない”古事記伝”をパラリとめくったところ、なんとなく手に取った”本居宣長”が少しだけ読みやすくなっているように感じられることにに気付いた。
いや、5月には本居の墓にも行っているし、書いてあることが実感をもって心に届きやすくなっている、ということなのだろうか?
本との出会いは、一期一会。出会ったら、まずは買っておくべし。
そんな勝手な個人的脳内標語に突き動かされ、自分をだまし/納得させて本を買ってきたいままでの人生/生活であったが、こうしてやっとこさ読めるようになると、なんというかほっとする。長年の借金をすこし返したキブンである。
そこにこのようなことがあった。今、本は通勤用の鞄に入れてあるので、、メモもない、記憶で書くのだが。
宣長や契沖は、歌を詠んだ。たくさん、詠むだ。ほとんど生涯を通じて詠んだ。あまり、うまくない歌を。
そして言う。歌を詠むことと歌を読むこと、鑑賞することは同じであると。読む、ためには、詠まねば、ならぬと。
そうでなくては、本当に”読みたく”ならない。読むときに、本当に”読みたく”なっていない。どんなに深く潜ろうとも、それは”読もうとしている”。他者としての歌を、読もうと、している。
それは歌道ではない。作って、自ら作り出すものとしての歌を、読む。そこで初めて歌は他者ではない、自己となる。そして初めて”読む”ことができる。
そんなことであったように思う。
これは単純に”自ら作ってみなければ鑑賞できない”とか、もっと単純に言えば”作ってみるとわかる”ということに近いように思うが違う。もっと、深いところでの意味だろう。自分とは何か。自分はこの歌に対峙してなにをどうしようというのか。
”読ん”でいる自分はなんなのか。どういうことをなぜに、どのようにしたいのか。
そこにいって、納得感の有無はともかく帰ってこないと、始まらない。
行って帰ったひとは、本物だ。
白川静の死去を悼むコラムで、四聖を述べた、孔子を述べた文章で池田晶子さんがおっしゃっていた(ように思う)。
なぜに、考えるのか。悩むな、考えろ。
信じるな、考えろ。
信じること、の表面的な使い方、心根に池田さんは懐疑的であり、そして小林には、”信じることと考えること”という名文がある。小林の”信じる”と、池田さんの”信じる”は違うのか。ここでも実は”違っていそうで”実は同じこと”。
人が陥りやすい安物の”信じる”はダメで、本当の”信じる”は”考える”に通ず。
そういうことではないか、と思っている。
考えることしか、ない。
それしか、楽しくない。
価値、があるのであればそれは考えること。
そんな風に池田さんはまとめておられたように思うのだが、
書くこと、ということで信じることである考えるに至ること。どうやらすべては地続きのようだ。
”夢見るように、考えたい”。
池田さんの文章からいただいたつもりの本ブログのタイトル通り、こうしてキイボードを叩くことで、池田さんのいう”考える”にすこしでも、かすっていきたいものだと、改めて思っている。