夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

わたくしは、どんな自分に、なりたいのだろうか。

池田晶子さんの文庫本、”考える人”を取り敢えずは通して読み終わった。池田さんの唯一の文庫、と思って居たが勘違いで、”僕が持っているうちで”ということだった。ソクラテスシリーズがあったのだった。昨日古本屋でソクラテスシリーズを見つけて気づいた。「ソクラテスシリーズは単行本と集冊版を持っているので、なんとなく全て持っていると思っていたのだった」。

古本屋に行くとどうしても池田さんの本を探してしまう。もう買う本はほとんど(というか一冊しか)ないのを知っているのになぜか。

その一冊とは勿論”最後からひとりめの埴谷雄高論”なのだが、まあセドリも一般化したこの時代、なかなか無理だろうとは思っている。しかしその実あまり期待はせず哲学の棚を見る。池田さんの本がある。たいていは”14歳からの哲学”だ。僕にはそれが次の読み手をひっそりと待つ池田さんの意思のように感じる。もっと言えば小さな池田さんが本と化してそこにたたずんでいるような錯覚もすこしある。そう、池田さんの子供にして幼少期でもあるような存在として。胞子、という感じもすこしする。

僕はなんとなく”頑張ってくださいね”というような気持ちを持って棚を離れる。これの世にあのようないわば”特異点”のようにあった池田さんだが、その在り方を含めて”後輩””後に続くもの”に大変に優しく接せられたとの想いがある。この世を離れたあともその書物は、文字通りその意味そのものとして”意思を伝える”。遺された意思ではなく、文字通りの真実として。

池田さんの嫌われた言葉に”自分さがし”がある。自分を探す、という魂のありかたが、根本的に人頼みで甘えた心象からなることを看破されていたのだろう。今の自分があなたなのです。もっと言えばそれをも踏まえ踏み越えた、”自分とはなにか”から本来は考え始めるべき。そうさせることから眼をそらせる装置たる”自分さがし”の言葉には、人に言い訳を認める親切ぶった不親切が潜んでいる。

そんなことを教えて頂いた気がしている。しかし凡俗なる身、ついつい自分の”これの世”での少しでも自分にとって居心地のいいスタンスを気が付けば探している自分がいる。”人との比較が地獄の始まり”とはわかっていても、うらやましいやら嫉妬やらの想いがつい兆す。自ら自然に発生し、身を焦がす承認願望の強さに辟易する。精神界での勝手な押しかけ弟子たる身としては、師・池田さんに申し訳無いわけだが、それがこの身のある意味限界であり設定値。池田さん流に言えば初期値、という奴であろう。ならばこの身の情けなさ含め、一切合財を抱え進むしかなし、とある意味やけっぱちとならざるを得ない。そこから、歩みはじめる。

ソクラテスを見かけた古本屋で購入した本。
網野本は安く買えて喜んでいたら、帰って見たら持っていた。。

最近そんなことが増えている。。。。

カラー版 ブッダの旅 (岩波新書)

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渋江抽斎 他 旺文社文庫 1-4

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テガミバチ 15 (ジャンプコミックス)

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日本の歴史をよみなおす (全) (ちくま学芸文庫)

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